鳥取藩池田家深川下屋敷跡

マーカーは鳥取藩池田家下屋敷跡です。

関連リンク – 鳥取藩池田家上屋敷跡(帝国劇場・出光美術館)鳥取藩池田家中屋敷跡鳥取藩池田家芝金杉下屋敷跡(芝金杉別荘「雲濤楼」)東郷神社(鳥取藩池田家下屋敷跡)因州池田屋敷表門

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP412・コマ番号250/553から鳥取藩屋敷の変遷について記載されています。P417・コマ番号252/553「抱屋敷 深川洲崎」がこの地になります。

池田慶徳
[池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名。因幡鳥取藩12代(最後の)藩主、のち鳥取知藩事。鳥取池田家14代。15代将軍となる徳川慶喜は同年生まれの異母弟、備前岡山藩池田茂政は同母弟にあたる。
幕末尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた水戸思想の主導者・水戸藩徳川斉昭の五男(庶子)で、母は側室の松波春子。幼名は五郎麿。元服して父斉昭より偏諱を受け昭徳(あきのり)と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。
嘉永3年10月29日(1850年12月2日)、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名、松平相模守を称した。家督を継ぐと藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、江戸桶町千葉道場を開いた千葉定吉を剣術師範として召し抱えている。
慶応4年2月3日(1868年2月25日)、慶徳は新政府議定に就任する。翌明治2年2月3日(1869年3月15日)、従二位・権中納言に叙される。5月15日(新暦6月24日)、議定から麝香間祗候に移る。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。6月19日、版籍奉還により鳥取知藩事に就任した。
鳥取藩の財政難などのこともあり、知藩事の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。  (wikipedia・池田慶徳より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図下中央・細川越中守下屋敷左下に松平相模守(池田慶徳)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は江東区東陽5丁目19南東角交差点で、カメラ北西方向江東区東陽5丁目6の南側部の位置で大横川まで、カメラ南東方向江東区東陽3丁目28の間、動物が口を開けているような形に見える範囲で鳥取藩池田家下屋敷があったと思われます。(鳥取藩池田家深川下屋敷跡範囲:江東区東陽5丁目2~7,15~22、江東区東陽3丁目23~28,)