黒江川跡、八幡橋跡、黒江町

マーカーは永代二丁目交差点(八幡橋跡)です。

黒江川跡、八幡橋跡
[大島川西支川の東側の元木場に数字の「7」に似た形をして流れていた堀割は黒江川といい、大島川西支川から大島川(大横川)の本川、一方は油堀川にも結ばれていた。『江東区史』には寛永6(1629)年の埋め立てによって出来た川筋であると記されている。明治に入りこれも埋め立てられたが、明治期の地図上では年代によって堀留となって残る様子が見てとれ、いちどきにではなく、数十年をかけ次第に埋め立てられていったらしいことがわかる。
 黒江川は八幡橋をくぐると、永代通り沿いにいま深川消防署永代出張所が建つ区画を、まっすぐ越中島の方向へと流れ大島川に注いだ。川筋だった道はやがて大横川(大島川)に突き当たる。小さな公園があり、桜並木の遊歩道となっている川岸に元木場の過去の形跡はなにもない。  (「一色九月堂 ic9 TOKYO WebMAGAZINE」より)]

黒江町
[黒江町は江戸時代昭和6年までの町名で、明治44年までは深川黒江町と称した深川猟師町8か町の一つで、浜13町の一つでもありました。開発当初は助右衛門町と称し、御菜御肴御用をつとめた無年貢地でした。寛文10年の検地から年貢地となり元禄8年の検地の際、石高を24石余と定め、町名を町域を流れる黒江川にちなんで黒江町と改称しました。元禄12年,町内に新たに堀がつくられた際、一部が上地となり黒江川向岸の北川町続に代地が与えられました。正徳3年から町奉行支配となりましたが、引き続き年貢を納め、町奉行・代官の両支配となっています。文化文政時代の家数497軒代地の家数19軒(町方書上)。天和2年までは浄土宗真光寺がありましたが、類焼後上地となり跡地の一部に元禄15年浄土真宗盛益山西念寺が移転してきました。町内には通黒江町・東黒江町・かわらけ町・日陰町・西念寺横町などの俗称があり、加賀藩前田家抱屋敷・物置場がありました。明治元年東京府に所属、同2年代地は深川福住町の一部となり、深川佐賀町2丁目代地、同5年西念寺をそれぞれ合併しました。同年の戸数362・人口1,582。同11年深川区に所属。同37年黒江川の埋立跡地に深川への市街電車の第1号が開通し、繁華な地となりました。また、明治中期頃から「夕かし」といい夕方から魚市場が開かれましたが、関東大震災後,築地【つきじ】(中央区)の中央市場へ併合されたました。昭和6年に永代2丁目・福住町1丁目・門前仲町1丁目(現行の永代2丁目・福住1丁目・門前仲町1丁目)となりました。  「黒江町(近世〜近代) – 解説ページ」より]

深川猟師町の成立
[深川猟師町は、寛永6年(1629)に「深川海手潮除堤(しおよけつつみ)の外の干潟」に誕生しました。隅田川河口の東側に広がっていた干潟が埋め立てられたと考えていいでしょう。この干拓事業にたずさわった8人の者は、それぞれの名を町名とした深川猟師町8か町の名主を務めることになります。1か月3度づつの御菜御肴(ごさいおさかな)の献上と水上での夫役(ぶやく)を条件に、江戸幕府から年貢(ねんぐ)を免除されることになりました。土地の支配は農地の扱いで、年貢がかかるのですが、将軍の食膳にのぼる魚の献上などと引き換えに、税金の免除が約束されたことになります。猟師町の検地は、寛文 10 年(1670)に初めて行なわれています。その後元禄8年(1695)にも行なわれ、これらを経て、無年貢地ではなくなります。最初から農地ではなかったのですが、さらに、江戸時代半ば以降には急速に町場化が進みます。検地帳には河岸地が記載され、漁業以外に、江戸への物資の流通拠点として深川猟師町が大きな機能を果たした様子がうかがわれます。その後、深川猟師町は、8か町に中島町・ 蛤町などが加わり、13か町に発展します。明治以降は、それがさらに14か町となりました。
寛永6年(1629)に深川猟師町ができると、周辺に仲買などの人たちが転住し、猟師町の漁師が獲った魚介類を取り扱うと同時に残りを日本橋へ送って販売しました。後には上総(かずさ)・下総(しもうさ)[現在の千葉県]の浜からも魚介類を買い集め、日本橋の問屋に送るようになりました。安政5年(1858)には、日本橋本船町組に加入し、幕府へ魚介類の納品をしたり販売を行なうようになりました。
江戸時代、深川猟師町で取り扱われた魚の種類としては、『寛永録』三に、「きす石鰈、ほうほう(ほうぼう)、小鯛さより、あゆなめ(あいなめ)、あち()」と名前が挙げられています。また、手長えび(芝えび)、牡蠣(かき)も有名でした。  (「江戸の名物・名産と江東地域②深川猟師町と漁業」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央に黒江町が描かれ、黒江町左に八幡橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左下・左から二本目の堀が黒江川で、永代通りに八幡ハシが描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町西大工町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図四つ切右下に黒江町、黒江川、八幡橋が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十五 深川区全図 – 特別区協議会

カメラ位置付近に黒江橋が架かっていました。

カメラ位置は永代二丁目交差点(八幡橋跡)で、黒江川は葛西橋通りから、南西(深川消防署永代出張所)方向に流れていました。また、八幡橋から黒江川沿い(葛西橋通り)で油堀までの黒江川周辺と、八幡橋から一之鳥居までの永代通り周辺が黒江町でした。(葛西橋通りは八幡橋と油堀の合流点手前に架かる黒江橋の北詰付近を直線で設定されている為、黒江川の線形とは一致していません。)

カメラ位置は中島橋跡でカメラ南西方向で大横川(大島川)に合流していました。

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