黒石藩津軽家上屋敷跡

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黒石藩津軽家
[弘前藩の支藩に、陸奥国津軽郡黒石(現在の青森県黒石市)に置かれた黒石藩(くろいしはん)がある。黒石藩は本家4代藩主津軽信政が藩主就任時幼少だったため、幕府の指示により叔父の信英(3代藩主・信義の弟)を本藩の後見人とすべく、明暦2年(1656年)に信政が本藩を継ぐと同時に弘前藩より5000石を分知されたのに始まる。黒石津軽家8代となる親足の代に至り、文化6年(1809年)弘前本藩よりさらに6000石の分与があり、1万石の外様大名として柳間に列した。居城は黒石陣屋(黒石城)。
信英は分知の際、賀田・猿賀・青森を希望したが叶えられず、津軽家の為信時代の拠点の一つ、黒石に配されたと伝わる。5000石の内訳は、黒石周辺2000石、平内周辺(現青森県東津軽郡平内町)1000石、弘前藩の飛び領地上野国大舘(現群馬県太田市尾島地区など)一帯2000石。
また、歴代当主(政兕以降)は、本家である弘前藩主からの偏諱を受けている。
幕末戊辰戦争では本家の弘前藩と行動をともにした。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により黒石県となる。  (wikipedia・弘前藩#黒石藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 南本所大川ヨリ横川マデ堅川ヨリ小名木川ノ間 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切右上・三ッ目橋の右下方向に津軽出雲守(津軽承保)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五・1852年)」(絵図中央上に津軽出雲守(津軽承叙)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は三ツ目通り立川三丁目交差点で、カメラ南東方向墨田区立川4丁目6までが黒石藩津軽家上屋敷跡になると思われます。(黒石藩津軽家上屋敷跡範囲:墨田区立川4丁目6~11)