七日市藩前田家下屋敷跡

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七日市藩前田家
[七日市藩(なのかいちはん)は、上野国甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。
七日市藩の藩祖は、加賀藩前田利家の五男の利孝である。利孝は利家の死後、異母兄の利長徳川家康本多正信の主従の画策で「幻の家康暗殺事件」の疑惑をかけられた際、利長の生母の芳春院(まつ)と共に人質として江戸で幼年期を過ごした。大坂の陣で利孝は徳川方として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石(寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石)の所領を与えた。これが七日市藩の立藩である。小藩であったため、また天保の大飢饉などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった。歴代藩主の多くは駿府城大坂城の守備役を務めている。
第11代藩主・利豁の代である天保13年(1842年)、藩校・成器館が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し、会津藩の討伐に参加した。翌年の版籍奉還で最後の藩主の利昭知藩事となる。利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行なった。明治4年(1871年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となる。  (wikipedia・七日市藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図 (安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図中央右下に前田丹後守(前田利豁)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図中央左下・霊山寺上に前田大和守(前田利和)下屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十四 本所区全図」(地図中央左上・柳島梅森町130番-136番地が七日市藩前田家下屋敷跡になると思われます。)

カメラ位置は墨田区横川2丁目6-3地先交差点で、カメラ東方向道路を含む両サイドが七日市藩前田家下屋敷跡になると思います。