両国橋

マーカーは大高源五句碑です。

両国橋
[両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。2008年(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。
両国橋全景・wikipedia-photo、1875年完成の最後の木橋時代の両国橋・wikipedia-photo、1904年完成の旧両国橋・wikipedia-photo、1932年に架橋直後の現両国橋・wikipedia-photo、旧両国橋を移設した南高橋wikipedia-photo、葛飾北斎 「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」・wikipedia-photo  (wikipedia・両国橋より)]

[明暦の大火(明暦3(1657)年)をきっかけに、万治2(1659)年に架橋。位置は現在よりも少し下流であった。当初、大橋と呼んだが、隅田川が武蔵国と下総国の境であったため、二州橋とも言われた。のちに武蔵、下総両国に架かることから、両国橋と正式に改められた。橋の両側に火除地として広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わった。両国の川開きは5月28日に行われ、8月28日までの納涼期間中は花火が打ち上げられ、江戸庶民を魅了した。
江戸名所図会を読む:
    両国橋(本文)
    両国橋(挿絵)
    [両国橋 其二](挿絵)  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「両国橋」より)]

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](両国橋大川ばた・wikipedia-photo)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](両国花火・wikipedia-photo)

両国
[本来、両国とは隅田川西側の武蔵国側の称であり、元禄(1688)時代からの本所深川開発以降、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国(向う両国とも)と呼ぶようになった。両国の北に隣接する柳橋も含め、両国は江戸屈指の歓楽街として栄え、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並んで賑わった。明治11年の東京市15区創設後西側を日本橋両国、東側を本所東両国という言い方ができてきた。近年、中央区側を西両国という表現をするのは適切ではない。本所、深川は旧来の下町(芝、京橋、日本橋、神田)からは「川向こう」であり、旧来の下町側から新興の東側を侮蔑的に見るところから西側の本家の両国、川向こうの格下の東両国(向う両国)という感覚が定着したと思われる。両国は隅田川をはさんで西、東が対等ではなくあくまで西側が本家で優越だったと考えられる。その後、両国駅の開業や両国国技館の開館にともない、両国という地名はおもに東両国を指すようになっていったと考えられる。  (wikipedia・両国_(墨田区)より)]

大高源五句碑
[忠臣蔵四十七士の一人で、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑です。源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を、上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。大高源五の俳句といわれる「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」を刻んだこの石碑は昭和3年に立てられました。  (「すみだ観光サイト – 大高源五句碑」より)]

[元禄15年(1702年)9月18日、大高忠雄(源五)は江戸下向にあたり、豪商綿屋善右衛門(赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より26両を借用。また遺作として『二ツの竹』を江戸下向直前に出版する。親交のあった水間沾徳宝井其角などそうそうたる俳人が句をよせている。そして10月18日に主君の仇吉良義央を討つため江戸へ下った。江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は忠雄の入手した情報を、横川宗房が親しくしていた上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、信用し、この日を討ち入りの日と決める。  (wikipedia・大高忠雄より)]

東京都立中央図書館隅田川両岸一覧図絵 上隅田川両岸一覧図絵 下」より。
両国橋西岸

両国橋東岸

  
両国橋資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一年八月ノ形」(絵図四つ切右上、浅草川架かる橋が両国橋です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図

[南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌」・「bunko01_01855_p0008.jpg

大高源五句碑 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は両国橋東詰で、カメラ南方向に大高源五句碑が設置されています。

カメラ南方向が現在の両国橋でカメラ西方向が神田川(柳橋)です。

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