亀戸香取神社

マーカーは亀戸香取神社です。

亀戸香取神社
[その昔、亀戸は亀の形をした小さな島で、亀島とか亀津島と呼ばれていたという。社伝によれば、天智天皇4年(665)藤原鎌足東国へ降った際、この島に香取大神を勧請し、太刀一振りを奉納して旅の安全を祈願した。これが当社の起源であるという。承平天慶の乱に際し、平将門の追討に向かった藤原秀郷は、先勝祈願のために当社に参籠した。乱の鎮定後、奉賽として弓矢を奉納し、勝矢と命名した。5月5日に行われる勝矢祭は、この故事に因むものである。このような由緒や武道の神として崇敬された香取大神の神徳に因み、現在ではスポーツ振興の神として広く崇敬を集めているとのことである。明治5年(1872)村社に列格昭和20年(1945)空襲で社殿が焼失し、昭和23年(1948)再建。現在の社殿は同63年(1988)に落成したものである。また、当社の神輿は、担ぐと屋根と銅と台座が別々の動きをするという珍しいもので、俗に「こんにゃく神輿」と呼ばれる。全国でも九州とここの2基しかないとのこと。  (「亀戸香取神社 | 東京都江東区 | 古今御朱印研究室」より)]

香取大神宮資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形」(絵図左上に香取大神宮が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「香取大神宮」(18-61)、「入神明宮太平榎・香取大神宮解説-1・右ページ中程より」(18-60)、「香取大神宮解説-2・右ページ4行目まで」(18-63)、「亀戸邑道祖神祭」(18-57)
香取大神宮(拡大図)

入神明宮太平榎(拡大図)

[入神明宮跡 所在地 江東区亀戸3-41
江東区登録史跡
 入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。由緒は、昔、このあたり一帯が海で、海上を往来する船の安全のために神明宮が祀られたといわれています。神木の榎は、枯れたときに「天下太平」の文字の虫喰いが生じたので太平榎と称し、また漁師が網を干したところから網干榎とも呼ばれました。
 江東区は、大部分が江戸時代以降の埋め立てで、古くは、亀戸のあたりに亀の形をした島があったと伝えられています。明治40年(1907)、このあたりから中世初頭の漁網のおもり(土埵)が発見され、当時、すでに人々が暮らしていたことを物語っています。
 明治に入り、天祖神社と改称しながらも、永く当地に祀られていましたが、昭和62年(1987)に香取神社(亀戸3丁目)に合祀されました。
 平成2年(1990)3月20日 江東区教育委員会  (「入神明宮跡 – 東京都江東区の歴史」より)]

亀戸邑道祖神祭(拡大図)

[挿絵は今は絶えてなくなった、亀戸地域の道祖神祭の情景を描いたものである。
挿絵注記には、「亀戸邑道祖神祭り 毎歳正月十四日にこれを興行す。この地の童子(わらわべ)多くあつまりて菱垣(ひがき)造りにしたる小さき船に五彩(いついろ)の幣帛(みてぐら)を建て、松竹などをも粧(そう)飾(しよく)し、その中央に「宝舟」といへる文字を染めたる幟を建てたるを荷担(にな)ひ、同音に唄ひ連れて、この辺りを持ち歩行(ある)けり。その夜童子集会して遊び戯るるを恒例とす。」と紹介している。
亀戸村では、享保のころから毎年1月14日に疫病を除く「道祖神祭り」が香取神社を中心に行われてきた。その祭りの時に使われた宝船の一つと、広重が道祖神祭りの情景を描いた肉筆画「紙本淡彩道祖神祭図」が香取神社に保存されている。
道祖神は主に村境や辻において災厄の侵入を防ぐ神とされ, 子供の成長や子宝・縁結び・五穀豊穣祈願などを対象として全国に広く祀られている。道祖神祭りは、もともと、村の入り口で行い、疫病や邪神が村へ入ることを阻止するための行事であったが、亀戸の道祖神祭りは、さらには道祖神を村の守り神として、祭にその村落の、各家々を訪ね、お祓いとお祝いをしていた名残なのであろうか。
現在の道祖神祭りは門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる左義長(さぎちょう)やどんど焼きなどの習俗と混合されている場合が多い。  (「[7巻18冊58亀戸邑道祖神祭] – 江戸名所図グループ」より)]

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カメラ北北東方向が亀戸香取神社参道です。

亀戸香取神社拝殿前のカメラです。

亀戸香取神社勝矢祭(かちやさい)のカメラです。

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