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割下水跡(北斎通り)
[徳川家康が江戸へ入国した天正18年(1590)8月1日の翌々日、江戸に大雨が降り、幾つかの池が溢れて江戸の中心地は沼のようになった、という記録があります。家康はすぐに1575間(約2.8㎞)の水路を掘らせたそうです〔『東京市史稿 市街篇第二』〕。江戸の下水道は「雨水排除」から始まったと言えます。
江戸に城下町が建設された寛永時代(1624~44年)から十数年後に、江戸の大半を焼き尽くすという明暦の大火(1657年)があり、江戸の市街地の再開発に伴い、本所・深川に武家地や町地がつくられることになりました。以前は田地だった本所地域には、排水路が縦横に設けられました。竪川、大横川、横十間川、南割下水、北割下水などは、いずれも江戸時代前期の万治年間(1658~61年)に掘られました。
『鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水』。小林一茶の俳句です。この句の「割下水」は「本所割下水」です。本所には「南割下水」と「北割下水」がありました。一茶も浮世絵師の葛飾北斎も「割下水」の住人でした。「南割下水」があった現在の《北斎通り》の名は、北斎の生誕地が「割下水」だったことによります。「割下水」は昭和の初め頃まで「南割下水」があった辺りの俗称地名として通用していたそうです。「割下水の生 まれ」とか、「住まいは割下水」というように使われていたようです。
「割下水」というのは、道路の真ん中を掘り割ってつくられた「下水路」です。江戸川柳に『黙礼のなかを流るゝ割下水〔武玉川・二篇〕』という句があります。「割下水」の両側の武家屋敷に住んでいた侍同士が「割下水」を挟んで挨拶を交わしている情景です。
チョット強引な言い方かも知れませんが、「割下水」が俳句や川柳に詠まれたり、俗称地名として通用していたということは、「下水」が人びとの身近にあったもののような気がします。 (「ニュース東京の下水道No215_4 – 東京都下水道局」より)]
[東京都墨田区亀沢1丁目から錦糸公園につきあたるまでの、かつての江戸・本所南割下水の排水路を暗渠(あんきょ)化して道路にした通り。東京都江戸東京博物館の建設を機に整備され、この名に改められた。正確な根拠は不明ながら、生地とされる割下水の南部に位置することを基として「北斎生誕の地」を謳う碑が建っている。また、通りの照明灯にはすべて葛飾北斎の浮世絵が貼られており、携帯バーコード・サービスによって解説文の閲覧が可能(NTTドコモの提供)。 (wikipedia・葛飾北斎 – 北斎通りより)]
燈無蕎麦
[燈無蕎麦(あかりなしそば)は、本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つ。幽霊屋敷の屋台版のような怪異。
江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒はいつ行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れず、その間、店先に出している行灯の火が常に消えているというもの。この行灯にうかつに火をつけると、家へ帰ってから必ず不幸が起るという。やがて、この店に立ち寄っただけでも不幸に見舞われてしまうという噂すら立つようになった。
逆に「消えずの行灯(きえずのあんどん)」といって、誰も給油していないのに行灯の油が一向に尽きず、一晩たっても燃え続けているという伝承もあり、この店に立ち寄ると不幸に見舞われてしまうともいわれた。
正体はタヌキの仕業ともいわれており、歌川国輝による浮世絵『本所七不思議之内 無灯蕎麦』(画像リンク)にはこの説に基づき、燈無蕎麦の店先にタヌキが描かれている。 (wikipedia・燈無蕎麦より)]
割下水資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図右御米蔵から左方向横川までの間に南割下水が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左御竹蔵から右方向、横川までの間に南割下水が描かれています。)
「南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌(近吾堂, 嘉永4[1851])」・ 「bunko01_01855_p0001.jpg」
カメラ位置は割下水跡(北斎通り)西端・清澄通りで、カメラ東方向が割下水跡(北斎通り)です。また、カメラ西南西方向が東京都江戸東京博物館です。
カメラ位置は割下水跡(北斎通り)/大横川(大横川親水公園)で、南北が大横川(大横川親水公園)で東西が割下水跡(北斎通り)です。
カメラ位置は横十間川・天神橋西詰で、カメラ西方向が割下水跡(北斎通り)です。