マーカーは大横川親水公園です。
大横川
[近世に入って、本所の開発が本格的に行われるのは、明暦3年(1657)の大火後です。
万治3年(1660)、幕府に本所奉行という役職が置かれ、徳山五兵衛重政徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政の二人が任命されました。そして、竪川や横川、源森川(げんもりがわ)を開通させ、小名木川を整備し、掘り下げた土で湿地を埋め立て、隅田川の東側に土地を築きました。こうしてできあがった更地(さらち)に屋敷割をすることがふたりの任務であったといわれます。
このときの大横川と横十間川の南端は、ともに小名木川との合流点でした。小名木川より南の深川南部の開発は、まだ未完成です。元禄14年(1701)、深川の南側にあたる海岸の入り江の埋め立てが進み、本木場から猿江に移転していた木場が、現在の木場公園周辺のいわゆる「木場」に移転したのち、このふたつの川は、小名木川以南に延伸されました。
【ふたつの川の名称】 「横」川という名は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。地図に、江戸城が逆さにならないように描くと東が上になり、南北に流れる川が横、東西に流れる川が縦に描かれることになります。こうして命名された川が大横川(横川)、横十間川(十間川)、竪川です。
【川幅20間の大横川】 大横川は、本所の開発が本格化された万治2年(1659)の開削です。本所奉行の任命に先立つこの年は着手の年と考えられ、整備は万治3年以降も続けられていたと思われます。このときの大横川は、北十間川と合流する墨田区吾妻橋三丁目の業平橋ぎわから小名木川と合流する森下5丁目12までした。
【木場へ通じる亥ノ堀(いのほり)】 元禄14年(1701)、木場の移転に伴い、大横川は小名木川と交差して南に延伸します。この部分は「亥ノ堀」とよばれました。元禄8年乙亥(きのとい)年の開削であることから付けられた名です。こうして木場と本所を結んで南北をつらぬく大横川の流域には商人が住み、河岸が形成されていきます。これらはおもに西岸に沿った一列ほどで、その奥は整然と区画された武家屋敷でした。そこに住む武士たちの生活物資をもふくめ、大横川は、深川から本所への物資輸送の動脈となっていきます。 (「大横川」より)]
大横川親水公園
[大横川親水公園は、東京都墨田区にある墨田区立の公園である。墨田区内を流れている大横川の多くの部分を埋め立てて造られた親水公園で、総延長は約1800メートルの大規模な親水公園である。
大横川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しい地域であった。これにより低い土地では川から水が溢れると浸水する危険があったため、大横川の一部を埋め立てて親水公園として整備されたものである。公園としては1993年4月1日に開園した。河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わった。幅は30~40m、長さは1.85km、面積は約63,343m²になる。
北は北十間川と合流していた付近から始まる。南は竪川との合流地点までとなっている。竪川との合流地点より南ではまた大横川として河川になっている。地名としては吾妻橋、業平、東駒形、横川、本所、太平、石原、錦糸、亀沢、江東橋、緑にまたがる。(いずれも墨田区)
園内は北から5つのゾーンに区分され、色彩豊かな花の広場と釣堀のある釣川原ゾーン、子供たちが遊べる広場のある河童川原ゾーン、緑豊かな渓谷と多様な生物が生息するビオトープ・花紅葉ゾーン、解放感のあるイベント広場・パレットプラザゾーン、スポーツ広場であるブルーテラスゾーンがある。
大横川親水公園・wikipedia-photo (wikipedia・大横川親水公園より)]
カメラ位置は大横川親水公園・業平橋北で、カメラ北方向が業平橋観光案内所です。(ストリートビューです。)
法恩寺橋(蔵前橋通り)北側のストリートビューです。
大横川親水公園南端:馬車通り北側のストリートビューで、カメラ南方向に本所・時の鐘のモニュメントがあります。
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図」(絵図中央付近・縦に横川が描かれています。)
「南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌」 – 「bunko01_01855_p0001.jpg」(地図左端・縦に横川が描かれています。)