弘前藩津軽家大川端下屋敷跡

マーカーは弘前藩津軽家大川端下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP906・コマ番号497/553から弘前藩屋敷の変遷について記載されています。P910・コマ番号499/553「下屋敷 本所大川端」がこの地になります。

「秘日記」の記述より
[弘前市立弘前図書館蔵岩見文庫「秘日記」は、弘前藩士の江戸在勤中の日記である。残念なことに史料から記録者の名前を読み取ることは出来ないが、彼は江戸勤番のために、安政二年二月二十三日(1855,4,9)に「御国(弘前)」を出立し、三月十日(1855,4,26)に江戸へ到着したことが記されている。
日記の記述は在府中の安政二年三月から年末までだが、その中でも安政江戸地震と、その被害記録が大きな割合を占める。
「秘日記」には安政江戸地震の情報以外にも、様々な記事が書き留められている。江戸に到着すると、止宿予定の「屋治郎兵衛方」が九日前の火災で焼失しており、仮宅に止宿したことなど自らの身辺の事情や、交友関係、両国橋の普請などの江戸の様子にも触れられており、弘前藩士の在府日記として読み解くことも出来る。
安政江戸地震は都市直下型で深夜に発生したために多くの死傷者を出し、死者数は武士、町人とも合わせて少なくとも 7000 人以上と考えられるが、詳細は不明である。
弘前藩の各屋敷は両国から本所にかけての震度が大きく被害が集中した地域に散在しており、安政江戸地震発生時、本所二ツ目の上屋敷に藩主順承、浜町中屋敷に隠居信順がいた。
「秘日記」には、地震発生時の様子が生々しく描かれており、初期微動と主要動の時間差も読み取ることができ、記録者が眠る時間にも関わらずまだ起きていたことが記され、意識のはっきりしていた彼は揺れの様子を克明に記憶している。「震動」から「不一通相動」くまでの間に起き上がって帯を締め、大小を手に逃げようとする一連の行動が記されており、P‐S時間は 10 秒程度であろうか。大きな揺れが来てからは、一歩も歩くことがかなわず、同僚の大森と二人で覚悟を決めて居室に留まったようだ。外からは「大山を崩ル如」き音が聞こえ、瓦が落ちたり土蔵が崩れる音だとしている。動きがおさまると、彼らは二階にあった居室を下り外へ出てみた。新築であったことが功を奏したのか、止宿所は西に大きく曲がっていたが潰れてはおらず、怪我人も出なかった。
話し合った記録者らは「出火之半鐘」を打ち鳴らした後、まず大川端の屋敷を目指して出発する。止宿所の位置は「馬喰丁」と考えられる。
馬喰丁」から「横山町」「薬研堀」「米沢町」、「両国橋」仮橋をわたり、「駒止橋」「大川端通」「藤堂和泉守中屋敷」を通過し川端の屋敷に到着する。たどり着くまでに汚れてしまったのか、屋敷につくと着替えを頼み、すぐに見回りなどをはじめ、その後は上屋敷や三ツ目屋敷へも参じており、忙しく対応に追われた様子が読みとれる。

    (「『秘日記』から見た安政江戸地震 – 歴史地震研究会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切右上・両国橋左下に津軽大隅守(津軽順承)抱屋敷と描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図(安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図四つ切左上・藤堂和泉守下屋敷右下に津軽越中守(津軽承昭)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は墨田区両国1丁目16-8地先交差点で、カメラ北北東方向道路を含む一帯が弘前藩津軽家下屋敷跡になると思います。