弘前藩津軽家中屋敷(向屋敷)跡

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[幕府において武家屋敷にかかわる行政を管轄した屋敷改(やしきあらため)が、大名・幕臣等が所持する各種屋敷の所在地、坪数等を記した『諸向地面取調書(しょむきじめんとりしらべしょ)』や「江戸藩邸沿革(えどはんていえんかく)」(『東京市史稿』市街篇第49所収)によれば、弘前藩津軽家の家臣が安政3年(1856)時点で所有していた江戸の屋敷は下表の通りである。
屋敷種別 場所 現在地 面積 備考
上屋敷 本所(ホンジョ)二ツ目 緑(ミドリ)2丁目 8075坪 元禄元年(1688)拝領
中屋敷 本所三ツ目通 墨田区緑3丁目 2870坪余 文政12年(1829)相対替
中屋敷 戸越(トゴシ)村 平塚(ヒラツカ)2丁目付近 2700坪 文政10年(1827)拝領
中屋敷 浜町(ハマチョウ) 日本橋浜町(ニホンバシハマチョウ)2丁目 4553坪 拝領年月不詳
下屋敷 大川端(オオカワバタ) 横網(ヨコアミ)1丁目 491坪 もと抱屋敷。享和2年(1802)拝領唱替
抱屋敷 入会(イリアイ) 亀戸(カメイド)3丁目 16594坪 亀戸天神社(カメイドテンジンシャ)隣地
抱屋敷 南本所大川端 東駒形(ヒガシコマガタ)1~3丁目付近 90坪  
町屋敷 本所緑町(ホンジョミドリチョウ) 墨田区緑1丁目~4丁目付近 83坪3合3勺 家来湯浅養俊所持
町並屋敷 森下町(モリシタチョウ) 森下(モリシタ)1丁目~3丁目付近 228坪4合 家来服部道立所持
本史料の外袋には享保3年(1718)という年記がある。当時、弘前藩の中屋敷は上表の本所、戸越村、浜町ではなく、向柳原(むこうやなぎはら)(現東京都台東区(たいとうく)浅草橋(あさくさばし)4丁目~5丁目)にあった。津軽家が同地に中屋敷を拝領した時期は明らかではない。幕府の右筆国学者でもあった屋代弘賢(やしろひろかた)(1758~1841)が著した「弘賢随筆」二十五(国立公文書館蔵)記載の伝聞によれば、同地には以前対馬藩宗家の家臣であった柳川調興(やながわしげおき)(1603~1684)の屋敷があり、寛永8年(1631)に発覚した朝鮮国書改竄事件(ちょうせんこくしょかいざんじけん)(柳川一件(やながわいっけん))によって柳川が処罰され、津軽家に召し預けとなったまま貞享元年(1684)死去したのち、津軽家に柳川の屋敷をそのまま与えたものだとしている。付近の地名が八名川町(やながわちょう)であるのは、柳川の住居があったことからであろうかと屋代は推測しているが、正保年間(1644~1648)・寛文年間に作製された江戸図には津軽家の屋敷の所在が確認されており、柳川の死去以前に同所が津軽家の屋敷であったことは確実である。宝永4年(1704)の相対替、正徳元年(1711)に幕府御徒組(おかちぐみ)との屋敷割替と代地拝領によって敷地を拡大しており、このことは、幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)の編纂になる江戸の延宝年間から幕末までの土地利用の変遷を示した地図集『御府内沿革図書(おふないえんかくずしょ)』においても確認することが可能である。同書によれば、正徳元年以降屋敷地の形状は変化なく江戸時代後期に及んでいる。最終的な屋敷地の坪数は5966坪に及んだ。しかし、「轅輿事件(ながえごし(えんよ)じけん)」で当時の藩主津軽信順(つがるのぶゆき)(1800~1862)が罰せられた直後の文政10年(1827)7月4日、土地・家屋ともに召し上げとなり、上表にも見える戸越村(戸越中屋敷)に替地(当初面積は6000坪、のちに相対替などで縮小)が与えられた。この屋敷替は津軽家にとっては大きな衝撃だったようで、「此度の屋鋪替は、江戸払(筆者注、江戸市中に居住を許さず、町奉行支配地域の外に追放する刑)にせられしが若し」とつぶやいた藩士がいたという(「甲子夜話続篇」三)。一方、向柳原の屋敷は、当時寺社奉行を勤めていた三河吉田(現愛知県豊橋市)藩主松平信順(まつだいらのぶより)(1793~1844)が拝領した。ちなみに松平信順は、のちに津軽信順の跡目を相続することになる黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(順承(ゆきつぐ)、1800~1863)の実兄にあたる。

浅草橋の拝領屋敷の変遷
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五」(コマ番号69/216・延宝年中(1673年-1681年)之形、コマ番号70/216・元禄十(1697)年之形のページ中央に津軽越中守と描かれています。コマ番号71/216-74/216・正徳元(1711)年之形から安永七(1778)年では拝領地が拡充されています。コマ番号75/216・当時之形(天保十五(1844)年)では酒井若狭守になっています。)

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図(安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図四つ切左上・津軽越中守上屋敷下に弘前藩津軽家中屋敷(向屋敷)が描かれています。)

カメラ位置は墨田区亀沢2丁目5-1地先交差点で、弘前藩津軽家上屋敷の東側で、カメラ東方向が弘前藩津軽家中屋敷(向屋敷)跡になると思います。