弘前藩津軽家中屋敷跡

マーカーは弘前藩津軽家中屋敷跡です。

関連リンク – 弘前藩津軽家上屋敷跡(緑町公園)弘前藩津軽家中屋敷(向屋敷)跡弘前藩津軽家(戸越)中屋敷跡弘前藩津軽家(浜町河岸)中屋敷跡津軽稲荷神社(弘前藩津軽家下屋敷跡)弘前藩津軽家大川端下屋敷跡弘前藩津軽家亀戸下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP906・コマ番号497/553から弘前藩屋敷の変遷について記載されています。P909・コマ番号498/553「中屋敷 本所三ッ目」がこの地になります。

弘前藩
[弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を高岡藩(陸奥高岡藩)、高岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽家で、家格は柳間詰め外様大名城主幕末に10万石に高直しをした事により家格が向上し、大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は弘前城青森県弘前市下白銀町)に置いた。
鎌倉時代津軽は、北条氏得宗領であり、得宗被官として送り込まれた津軽曾我氏や、津軽生え抜きの領主から地頭代官に抜擢された津軽安藤氏(安東氏)が支配した。
曾我氏は、南北朝時代元中年間(1380~92年)に、詳細は不明であるが根城南部氏によって滅んだとされ、また、安東氏は南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努めたが、15世紀半ば頃、糠部郡から勢力を伸ばしてきた南部氏に追れた。
戦国時代初期、三戸南部氏の当主・南部信時は津軽を領国内に納めようと進出をおこない、延徳3年(1491年)に一族の南部(大浦)光信津軽西浜種里城に配置し安東氏への押さえとするとともに、明応7年(1498年)に四男・南部(達子)光康を外浜堤ヶ浦に配置し「津軽郡代」とした。
文亀2年(1502年)、種里城主・南部光信は新たに築いた大浦城大浦盛信を置き、盛信は「大浦屋形」と称され、喜田、大浦を含む鼻和郡は勢力基盤となっていく。そして、天文15年(1548年)以降、三戸南部氏は当主・南部安信の弟南部(石川)高信石川城に、南部政行大光寺城に配置し、強力な支配体制を築き上げた。
津軽氏は、元は大浦氏を称し、大永6年(1526年)、初代光信が没し、嫡男・盛信が跡を継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿・政信、四代は政信の子・為則永禄10年(1567年)婿養子として入った為信が五代目としてが継承した。
初代藩主となる津軽為信は、もとは南部氏の被官であり、戦国末期に独立化を進め、天正18年(1590年)3月、浪岡城を囲み城代楢山帯刀を三戸に敗走させた際に、南部信直は為信討伐を九戸政実に命じるが病気と称して出馬せず、久慈政則・櫛引清長・七戸家国らも抑えたため、津軽への出兵を断念することとなり、為信の独立と津軽・外浜の領有は達成される。為信は、同天正18年7月の豊臣秀吉小田原征伐に参陣して南部氏の領地を切り取る形で独立して、大名の地位を公認され、さらに、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が江戸時代を通じて津軽と外ヶ浜を治めた。
弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5,000石と関ヶ原参陣の功によって加増された上野国勢多郡大舘領(現群馬県太田市尾島地区など)2,000石の計4万7,000石。元禄2年(1689年)に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1,000石を召し上げられて4万6,000石となる。この際領内に生じた飛び地の天領を解消するため、元禄11年(1698年)に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町内)を取得した。
弘前藩は山鹿素行の子孫を重用した事で知られ、山鹿流に師事した歴代藩主・分家・重臣たちは、総じて赤穂浪士には好意的ではなかった。 重臣の乳井貢赤穂事件を激しく批判する著作を発表したり、浪士に同情した北村主水を宝永5年(1708年)に閉門、知行(1000石)没収の厳罰に処し、供養塔の破却を命じている。また家中には大石良雄の一族もいたが、厚遇されている山鹿系家臣と対立し、親戚衆や旧石川南部氏の遺臣に与して「津軽信章越境事件」など御家騒動も発生した[7] 。
その後、9代寧親の代の文化年間に高直しがあり文化5年(1808年)に10万石となった。これに伴い従四位下昇進と大広間詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった陸奥盛岡藩主・南部利用より寧親が上座となり、これに対する屈辱から盛岡藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した相馬大作事件が引き起こされた。
弘前藩重臣となった山鹿素行の子孫からは、長州藩など勤皇の諸侯に影響を与えた山鹿素水が出ている。 明治元年(1868年)の戊辰戦争では、当初奥羽越列藩同盟に属したが後に脱退、新政府に与したが、秋田戦線では庄内藩に敗北、野辺地で盛岡藩に敗北、蝦夷地で旧幕府軍に敗北する(当時の藩主の実家だった肥後藩はこの敗戦を見かねて援軍を送った)など各地で負け続けるが戦後に新政府より1万石を加増された。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により弘前県となる。  (wikipedia・弘前藩より)]

津軽信明
[津軽 信明(つがる のぶあきら)は、江戸時代中期の大名。陸奥国弘前藩8代藩主。官位は従五位下・土佐守。
宝暦12年(1762年)6月22日、7代藩主・津軽信寧の長男として誕生。安永5年(1776年)3月1日、10代将軍・徳川家治御目見する。同年12月18日、従五位下・出羽守に叙任する。幼少期から才能に恵まれ、宇佐美恵助、戸沢惟顕らから教えを受けてその才能に磨きをかけた。また、当時名君と呼ばれていた肥後国熊本藩主・細川重賢出羽国米沢藩主・上杉鷹山(治憲)、そして陸奥白河藩主・松平定信らと親交を持ったことも、信明の才能と見識を広げる一因となった。
天明4年(1784年)2月晦日、父の急死により家督を継いだ。この頃、弘前藩では天明の大飢饉で死者13万人と言われるほどの大被害を受け、その救済費などによる出費から財政が悪化していた。このため信明は藩財政改革に乗り出し、乳井貢、毛内有右衛門ら有能な士を登用、不正を行なう家臣に対しては厳しい処罰で臨んだ。
改革のうち珍しいものとして、有右衛門の進言を容れての藩士の帰農、土着策がある。有右衛門は武士の窮乏化が促進するのは武士が年貢である米に頼りすぎるからであるとし、藩士を織田信長兵農分離以前の半農半士の状態に戻そうとしたのである。この頃、弘前藩では飢饉が相次いで領地は荒廃し、百姓は差し出す年貢さえなく、田を捨てて逃亡するという有様であった。そこで藩士を半農半士にすることで、荒廃した田畑を復興させようとしたのである。しかし、当初は反対論が多く、始めは希望者のみにとどめた。その後、赤石安右衛門や菊地寛司らの尽力もあって、荒廃した田畑のうち1000町歩が復興した。
信明はさらに倹約令や出費の大幅削減、義倉設置による食糧備蓄、藩校の開設と教育の普及、藩法の制定、年貢徴収方法を定免法から検見法に改めるなどして、着実な改革を行なって財政を再建した。しかし寛政3年(1791年)、信明は30歳で急死し、改革はあと一歩というところで挫折した。これには毒殺説もある。嗣子がなかったため、跡を養嗣子・寧親(別家の津軽著高の子)が継いだ。  (wikipedia・津軽信明より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切左上に津軽大隅守(津軽順承)が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五・1852年)」(絵図中央下に津軽越中守(津軽順承)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置周辺区画が弘前藩津軽家中屋敷跡になると思います。