弘前藩津軽家亀戸下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP906・コマ番号497/553から弘前藩屋敷の変遷について記載されています。P909・コマ番号498/553「下屋敷 柳島 南葛飾郡亀戸町」がこの地になります。

津軽順承
[津軽 順承(つがる ゆきつぐ)は、三河国吉田藩主・松平信明の五男。
文政4年(1821年)6月5日、黒石藩津軽親足の養子となった。文政7年(1824年)2月、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。文政8年(1825年)11月5日、親足の隠居により跡を継いだ。同年12月16日、従五位下・左近将監に叙任する。文政9年(1826年)4月28日、後に養父ともなる本家弘前藩主の津軽信順から偏諱を受け、順徳(ゆきのり)と名乗った。
天保10年(1839年)5月16日、本家藩主である信順が不行跡により幕府の命令で強制隠居となったため、その養嗣子として跡を継いだ(黒石藩は養子の承保が継ぐ)。天保13年11月、順承と改名した。弘化元年(1844年)12月16日、従四位下に昇進する。嘉永3年(1850年)12月16日、侍従に任官する。
佐藤一斎に師事した英才藩主で、天保の大飢饉や信順時代の浪費で破綻していた藩財政再建を目指した。名君といわれた津軽信明に倣って、5か条の倹約令や30か条の経費節減、新田開発や荒地の復興、貯蓄制度による凶作対策や洋式軍備による軍備増強、大砲鋳造や海防警備の強化、医学館や蘭学堂の設置による学問の奨励など、様々な藩政改革に努めて藩政を再建した。
安政2年(1855年)、蝦夷地警固を命じられ、宗谷(稚内)に藩兵を派遣した。その際、ビタミンB1不足由来の浮腫病(ニコチン酸欠乏症)防止のために、コーヒー豆を支給している。
安政6年(1859年)2月7日、婿養子・承昭に家督を譲って隠居し、長楽庵と号した。その後は俳句の世界に入り、梅翁という俳号を名乗った。元治2年(1865年)2月5日、死去。
弘前藩では、津軽信明と並ぶ名君と言われている。  (wikipedia・津軽順承より)

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図 (安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図右下・横十間川下、龍眼寺左に津軽越中守下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切左上・横十間川上、龍眼寺右に津軽大隅守(津軽信順)抱屋敷と描かれています。)

東京府南葛飾郡亀戸町・大嶋町」(地図左上・亀戸天満宮上、遊園地とその左エリアが弘前藩津軽家亀戸下屋敷跡になると思われます。)

カメラ位置は江東区亀戸3丁目19-6地先交差点で、この付近が弘前藩津軽家亀戸下屋敷跡の中央部になると思います。