マーカーは徳之山稲荷です。
徳山五兵衛屋敷跡(徳之山稲荷)
[徳ノ山稲荷神社は、本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡である当地に、屋敷神として稲荷神を祀ったのをはじまりとします。徳山五兵衛の死後、彼の功績を称えて御霊を合祀し、徳ノ山稲荷神社として大切に守られています。当地には、日本左衛門首洗い井戸跡、石碑が残されています。侠骨剣豪の日本左衛門を徳山五兵衛(徳山秀栄)が捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがないというので、処刑する前に日光参拝を許したということで、徳山五兵衛の人柄が偲ばれます。
徳山五兵衛屋敷跡
江戸時代の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡です。開府当寺の江戸は、明暦3年(1657)の大火をはじめ、たびたびの火災で大きな被害を受けたので、江戸幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の開拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路の整備と市街地の造成をしました。この事業のため万治3年(1660)に徳山五兵衛と山崎四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。徳山五兵衛は功により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀され、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。(墨田区教育委員会掲示より) (「猫のあしあと」より)]
[本所の開発について記した文献は幾つかありますが、最も分かりやすいのが『本所深川起立』です。宝暦5年(1755)6月に書かれた同書は、本所の開発が万治2年(1659)から始まったこと、総括責任者として徳山五兵衛・山崎四郎左衛門の両名が本所築地奉行に任じられたことを伝えています。また、工事が竪川をはじめとする堀割の開削から開始され、その排出土砂を用いて地面がつき固められていったこと、洪水対策として川端には水除けの土手が築かれたことも判明します。このようにして開発の始まった本所では、ついで道普請が行われました。ただし道路を通すといっても古農道を利用したのではありません。寛文11年(1671)4月に出版された「新板江戸外絵図」を見みると道が整然と通されていたことが分かります。武家屋敷や寺社、町家の移転は計画的に行われようとしていたのです。 (「土にねむる江戸―墨田区の遺跡―」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川辺右石原北割下水迄 : 天保一一(1840年)年八月ノ形」(絵図下中央左側・徳山石見守と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五・1852年)」[絵図左側中程・御竹蔵右上方向に徳山五兵エと記述されています。]
「徳山五兵衛屋敷跡 – Google Map 画像リンク」、「日本左衛門首洗い井戸跡之碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が徳之山稲荷です。