マーカーは挙母藩内藤家下屋敷跡です。
関連リンク – 挙母藩内藤家上屋敷跡、挙母藩内藤家中屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP775・コマ番号431/553から挙母藩屋敷の変遷について記載されています。P779・コマ番号433/553「下屋敷 本所石原」がこの地になります。
内藤政優
[内藤 政優(ないとう まさひろ)は、文化7年(1810年)12月5日、近江国彦根藩主・井伊直中の十三男として誕生。井伊家時代の名は直与(なおくみ)。幼少時に病にかかり、それによって歩行が不自由になった。
実兄で三河国挙母藩4代藩主・内藤政成が、養子入りの持参金目的から養子として迎えることとなり、文政13年(1830年)9月20日、兄の隠居により家督を継いだ。12月6日に従五位下・丹波守に叙位・任官する。
天保の大飢饉が起こると救済に尽力したが、天保7年(1836年)9月21日には現在の松平地区で加茂一揆が発生する。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展した。挙母藩では先代から軍事力の強大化に努めていたため、政優は鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を鎮圧している。この一揆は東海地方有数の規模となり、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱にも影響を与えることとなった。またこの加茂一揆には「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名がある。
この一揆の後、政優は西洋式の砲術を導入して軍の近代化に努め、藩財政再建のために倹約や家禄削減を行なっている。また蘭学を奨励し、自らの生活費用を切り詰める代わりに、漢籍や蘭学書を買っていたという逸話もある。天保13年(1842年)には奏者番に任じられた。
嘉永4年(1851年)2月12日に死去。享年42。跡を甥で養子・政文が継いだ。 (wikipedia・内藤政優より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川辺右石原北割下水迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図左下・大川右に内藤丹波守(内藤政優)と描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図(安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図上中央・内藤山城守(内藤政文)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は墨田区本所1丁目1南西角交差点で、カメラ東北東方向が挙母藩内藤家下屋敷跡になると思います。