挙母藩内藤家中屋敷跡

マーカーは挙母藩内藤家中屋敷跡です。

関連リンク – 挙母藩内藤家上屋敷跡挙母藩内藤家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP775・コマ番号431/553から挙母藩屋敷の変遷について記載されています。P778・コマ番号433/553「中屋敷 本所竹蔵後」がこの地になります。

内藤政文
[内藤 政文(ないとう まさふみ)は、文政13年(1830年)6月13日、井伊中顕近江国彦根藩主・井伊直中の六男)の三男として誕生する。嘉永4年(1851年)に叔父で三河国挙母藩5代藩主・内藤政優が死去したため、その養子として家督を継ぎ、12月16日に従五位下・山城守に叙位・任官する。なお、4代藩主・内藤政成も同じく叔父で、当時は隠居として健在であり、また政文の正室・増子は政成の孫娘で養女であった。
嘉永5年(1852年)より馬産を奨励して産業振興を図り、安政2年(1855年)には洪水でたびたび悩まされていた安永川の修築に努めた。そのほかにもオランダ軍制や西洋医学の導入に努めて、文武の奨励を図った。政文は馬術に優れた人物で、馬場稽古所を設置して、自ら藩士を訓練したという逸話もある。
安政5年(1858年)9月30日に死去した。享年29。跡を長男の文成が継いだ。  (wikipedia・内藤政文より)]

内藤文成
[内藤 文成(ないとう ふみしげ)は、安政2年(1855年)12月20日、6代藩主・内藤政文の長男として誕生。安政5年(1858年)に父が死去したため家督を継ぐが、4歳の幼少のために藩政は家老らによる合議制で行なわれた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、尾張藩を通じて新政府に恭順し、食糧や人足の調達に努めた。明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還により、挙母知藩事に任じられる。直後の9月19日に百姓一揆が起こったが鎮圧し、藩政改革に着手している。12月13日、従五位下・丹波守に叙位・任官する。
しかし改革における家禄改革の不満から、明治3年(1870年)6月24日に石井騒動、明治4年(1871年)5月に正学党事件が起こるなどしている。7月14日の廃藩置県により、知藩事を免官された。  (wikipedia・内藤文成より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図四つ切右下・御米蔵下左に内藤丹波守(内藤政優)と描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図(安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図上中央上方向・御竹蔵右下に内藤山城守(内藤政文)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は石原1丁目交差点で、カメラ南東方向が挙母藩内藤家中屋敷跡になると思います。