マーカーは普門院です。
普門院_(江東区)
[真言宗智山派の普門院は、福聚山善應寺と号し、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転しました。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。伊藤左千夫墓や大島伯鶴の歌碑など数多くの文化財がある他、亀戸七福神のひとつ毘沙門天としても親しまれています。
●新編武蔵風土記稿による普門院の縁起
普門院
新義真言宗青戸村宝持院末、福聚山善應寺と号す。
慶安2年8月24日大猷院殿(徳川家光)当院ヘ御立寄アリテ即日寺領5石ノ御朱印ヲ賜ハリツヒテ御小休ノ御殿ヲ建サセラレシカ其後絶テ御渡モアラス御殿モツヒニ取払ハセラレシナリ。宝暦3年10月29日惇信院殿(徳川家重)此渡御遊猟ノツヒテ成ラセタマヒシヨリ再ヒ御膳所ニ定メラレテ御成門ヲ建置リ。
本尊大日。開山長賢大永7年4月2日寂す。開基は千葉中務大輔自胤にて古は豊島郡橋場村にありしを、元和2年今の処に移さる。慶安2年8月24日大猷院殿当院へ御立寄ありて即日寺領5石の御朱印を賜はり、つひて御小林の御門を建させられしか、其後絶て御渡もあらず、御殿もつひに取払はせられしなり。
観音堂。今は大破に及びて再建ならざれば、観音は仮に本堂に置り。縁起に云当寺安置の聖観音は伝教大師の作にて、昔は下総国足立庄隅田川の邊にありしが、大永2年千葉中務大輔自胤の臣佐田善次郎盛光と云もの、讒者のために冤罪を蒙り、既に死刑に行れんとせしとき、盛光兼て信ずる処なればかの観音に祈誓せしに、不思議や奇瑞の奇特ありて助命に逢しかば、夫より身代の観音と唱ふ。斯て盛光剃髪して観慧と号し、弥信心浅からず。自胤も深く是を感じて乃城内に一宇を建て、普門院と号し、彼の観音の安置すと云々。是に拠れば初は寺の本尊となせしと見ゆ。其後別に堂を建たる年代等は詳ならず。
青龍権現社。
鐘楼、享保20年再鋳の鐘にて、銘に寺草創の大略を記す。相傳ふ古鐘は元和2年、旧地より当所へ移りし時、船に載て隅田川を渡さんとて、中流にて誤り落せり。よりて取揚んとせしかど、いかなるゆへにや終に果さず、是今の鐘か淵是なりと。されど彼鐘か淵の事は一説に橋場長昌寺の鐘なりといへば、何れを正しとせんか姑く傳のままを記せり。
慈眼水、来由詳ならず。清冷の井なり。(新編武蔵風土記稿より) (「猫のあしあと」より)
「江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、四つ切左下・大川ハシ、両国ハシの間・右方向、天神右に普門院が描かれ、その右に御膳所が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形」(絵図左上・津軽大隅守抱屋敷右上に普門院が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図」(絵図右上・津軽越中守下屋敷右に普門院が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「福聚山普門院解説-1・左ページ9行目より」(18-55)、「普門院・左ページは福聚山普門院解説-2」(18-56)、「福聚山普門院解説-3・右ページ5行目まで」(18-58)
普門院(拡大図)
絵本江戸土産 – 普門院境内御腰掛の松(拡大図)
「普門院 – Google Map 画像リンク」、「毘沙門堂 – Google Map 画像リンク」
カメラ北西方向が普門院山門です。