本所尾上町

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本所尾上町(墨田区両国一丁目)
[両国橋東詰の町で、俗に向こう両国とは東両国といわれた。隅田川の河岸場で、見世物小屋が集まる町である。鳥娘、熊娘、ろくろ首などの因果物が多かった。近くの南本所元町の河岸では垢離場(こりば)があった。垢離茶屋に着物を預けて千垢離をとるもので、大山詣りの前に行われた。  (「江戸切絵図散策」より)]

[南本所元町の西にあり、西は大川(隅田川)東岸の御石置場、南は大川より竪川が東に入る口にあたり、北は両国橋東広小路。もとは大川端の明地であったが、元禄7年(1694)橋本甚三郎ら3名の拝領町屋となる。東の方一ッ目に本所相生町があることから、尾上町と名付けられた。同10年町内中ほどの入堀が埋立てられて佐野道休の拝領地に、宝永元年(1704)北方の明地が材木方手代6人の拝領地となり、享保19年(1734)には南の方本所橋の古木置場が新規町屋となって町域に加えられた。町内間数は南北の表間口が田舎間85間余・裏幅88間余、東西の南裏が16間、北裏が4間余。北方の大川には両国橋が架かり、当町辺りは里俗に東両国と称された。拝領町屋は御納戸方御呉服師橋本甚太郎をはじめ御材木蔵手代6名・御釜師大西五郎左衛門らの5ヵ所。中ほどに商番屋があった。竪川通の物揚場(長さ3間余)は元禄9年まで両国橋仮橋が架けられていた場所で、その後当町と南本所町が願出て橋台の石を破壊して石段を造り物揚場とした。隣接する当町南端角の本所方付御用屋敷の地も両国橋仮橋台跡の明地で、享保19年に上納屋敷とされ家作町並が作られて、天明5年(1785)以降本所道役(※本所深川の宅地・道路・水道のことをつかさどった役。元々本所奉行支配下だったが、享保4年に廃止になると町奉行支配下にかわった。定員は2人で給与は10両。)に預けられた。御用屋敷は表間口が田舎間5間で坪数81坪余。当町は享保8年以降公役銀を納めたが、御用屋敷分は除かれていた。大川沿いの御石置場は天明5年に竪川口から北方両国橋東広小路に至る755坪余が埋立てられてできた。同年11月には本所道役清水・家城両人上納引受の家作地となったが、寛政元年(1789)三叉(現中央区)などの埋立地取払いと同じく家作は取払われ、翌年6月再び御石置場となった(御府内備考)。文政11年(1826)の家数29(文政町方書上)。名主役は元禄7年には長兵衛が任じられ、その後度々代わったが、文政期には長兵衛の子孫が勤めていた(御府内備考)。文政7年の江戸買物独案内には貸座敷料理屋の中村屋平吉・三河屋喜右衛門がみえる。明治4年(1871)南本所元町に合併。  (「本所尾上町 | 仲介手数料最大無料の東京賃貸事情」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一年(1840年)八月ノ形」[絵図四つ切右上・両国橋上の南石置き場周辺が本所尾上町です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五年・1852年)」

[南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌(近吾堂, 嘉永4[1851])」・「bunko01_01855_p0008.jpg

旧両国橋・広小路跡 – Google Map 画像リンク」、「赤穂浪士休息の地 – Google Map 画像リンク」、「石尊垢離場跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向に「旧両国橋・広小路跡」、「赤穂浪士休息の跡」、「石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)」の3本の高札があります。江戸時代の両国橋は現在の橋から50m下流に架けられていて、このあたりは両国橋南東詰になり、カメラ南南西方向が本所尾上町になります。

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