本所松坂町一丁目

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マーカーはカメラ位置です。

本所松坂町一丁目([現]墨田区両国2~3丁目)
[本所相生町一丁目の北にある。東は旗本土屋氏屋敷と本所松坂町二丁目、西は回向院・郡代牢屋敷など、北も武家地。北側と西側の地所はもとは明地であったが、元禄9年(1696)拝領町屋敷となった。東側はもと御竹蔵であったが、元禄初年頃近藤登之助(wikipediaでは松平信望)屋敷となり、その後吉良上野介義央の屋敷となった。同15年の旧播磨赤穂藩士の討入り後同屋敷は収公され、同16年拝領町屋敷となり松坂町一丁目と称した。町名の由来は不詳であるが、付近に相生町・緑町など松樹に縁のある名があることに由来するという説などがある。町内間数は北側の東西が表間口京間32間余、南北の西方8間余・東方13間余で、続地が北へ折れていた。西側は南北が表間口京間66間余、東西の南方5間余・北方7間余。東側は南北表間口京間12間・東西20間で計1018坪余。一部(12間余)を除き片側町。拝領町屋敷は表坊主佐藤俊貞の拝領町屋敷など11ヵ所。公役銀享保7年(1722)以降上納した。自身番屋・髪結床番屋各1ヵ所があった(御府内備考)。文政11年(1828)の家数118(文政町方書上)。同7年の江戸買物独案内には紙問屋の紙屋弥兵衛、本所一ッ目中通松坂町の御菓子所金沢屋和泉掾がみえる。明治5年(1872)郡代牢屋敷跡など付近の旧武家地を合併。郡代牢屋敷の地は寛文新板江戸絵図に郡代伊奈十左衛門の屋敷としてみえており、牢が併設されていたものか。寛政4年(1792)伊奈氏没落後に郡代牢屋敷と定められたらしく、御用屋敷ともよばれた(葛西志)。  (「本所松坂町一丁目 | 仲介手数料最大無料の東京賃貸事情」より)]

本所松坂町
[『忠臣蔵』関係の書籍のなかには、本所松坂町に吉良邸があったと書かれているものが多いが、これは明治期の講談の影響によるもので、史実ではない。(※武家地には町名はない。)
吉良邸討ち入りから1年弱経った元禄16年(1703年)の元禄大地震とそれの6日後に起きた大火(水戸様火事)で吉良邸があった周辺は壊滅状態になり、その復興のときに吉良邸跡の4割ほどのところに御鏡師の中島伊勢・御研師の佐柄木弥太郎の拝領町屋と芝田町代地ができ、残りは使用目的が決まっていない割残地であった。宝永2年~4年(1705年~1707年)にかけて中島・佐柄木両名の拝領町屋は本所松坂町一丁目拝領町屋に、芝田町代地が本所松坂町二丁目年貢町屋となった。この時に「本所松坂町」の町名ができたのである。またこの頃、吉良邸跡の割残地だったところが芝新堀常浚拝領地となっており、吉良邸跡すべてが本所松坂町となった年代は不詳であるが、宝暦12年(1762年)の時点ではそれが確認されている。なお、吉良邸跡だけでなく、その近所の回向院東の道沿いなどに本所松坂町一丁目の町屋があった。  (「本所松坂町公園」より)]

元禄6年[1693]の「[江戸図]」・「ru11_01193_p0011.jpg」[元禄6年時点では、吉良上野介が屋敷替えになる土地は御竹倉となっていて、松平信望(5000石の旗本)の屋敷地にもなっていない。信望は元禄11年の勅額火事後の11月に本所御竹蔵跡地に屋敷(土地のみ)を拝領した。元禄14年(1701年)8月12日、信望は下谷町野酒之丞のものだった屋敷を拝領し、本所屋敷から立ち去った。このあとの8月19日、吉良義央が江戸城お膝元の呉服橋からここへ移されてきた。(wikipedia・松平信望より)
また、絵図の両国橋が2箇所描かれ左側の両国橋が×になっている、「七味発祥の地「両国橋界隈・江戸の歴史」 – e-mansion IS」に『両国橋」は万治2年(1659年)架けられたが、天和元年(1681年)12月の水害で流失、元禄9年(1696年)完成したが、この地図の橋は「仮橋」で、浜町寄りに在った。』とあるので、この絵図は元禄9年(1696年)両国橋再建後、仮橋(両国橋)を×で消して再建をされた大橋を書き加えたもののようです。]

本所松坂町一丁目資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一年八月ノ形」(絵図右上・回向院左に本所松坂町一丁目が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図

南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌」・「bunko01_01855_p0008.jpg

カメラ位置は吉良上野介義央屋敷裏門前付近で、カメラ東南東方向に吉良上野介義央屋敷裏門があった。カメラ北北西方向小路奥にかって郡代牢屋敷があり、その手前両サイドが元禄9年(1696)に拝領町屋敷になった松坂町一丁目です。また、カメラ東方向が松平信望の屋敷地で、その後吉良上野介義央の屋敷地となり、赤穂浪士討ち入り後、拝領町屋敷となり松坂町一丁目、二丁目になった。

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