鏡師中島伊勢住居跡

マーカーは鏡師中島伊勢住居跡の駒札です。

鏡師中島伊勢住居跡
[中島伊勢の住居は、赤穂事件忠臣蔵)の後、町人に払い下げられた本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、江戸幕府用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、のちに葛飾北斎となる時太郎を養子とします。
 北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も北斎は中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。
 飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この噂は、北斎自身が広めたようす。  ぶらろ両国街かど展実行委員会  (「東京都墨田区の歴史 鏡師中島伊勢住居跡」より)]

[葛飾北斎は、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。)にて、貧しい百姓の子として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。明和元年(1764年) 幼くして、幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋丁稚木版彫刻師の徒弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。  (wikipedia・葛飾北斎生涯年表より)]

鏡師中島伊勢住居跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向に鏡師中島伊勢住居跡の駒札が設置されています。

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