東京大空襲体験談(生死の境)

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マーカーは淡路小学校校歌のモニュメントです。

15歳のとき、東京大空襲を目の当たりに – 角田実
[日本全国で空襲がありましたが、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲は、最も多くの人が亡くなった空襲です。10万人以上が犠牲になりました。そのとき私はまだ15歳でした。
 3月10日は陸軍記念日で、アメリカ軍が効果を上げるために爆撃してくるかもしれない、そんな噂はありました。初めに2機が来て、九十九里浜をグルグル回って偵察していました。それにより日本の電波探知機は妨害されていたのです。後ろには小笠原列島付近にまだ200機以上いるのですが、日本の電波探知機はそれを探知できなかった。つまり、最初の2機は本隊が探知されないように邪魔していたわけです。だから、夜中の12時頃に空襲警報が出たときは、江戸川あたりにもう焼夷弾が落ちていました。どうもおかしいという情報はあったのですが、はっきりとは分からなかったんですね。最初の1発が落ちたと同時に空襲警報だからもう遅い。それが、東京大空襲の始まりでした。
 そして、絨毯(じゅうたん)爆撃が始まりました。昭和通り、中央通り、明神下通りと、タテからヨコから焼夷弾を落とされる。両方から燃やしていけば、中央はみんなやられるでしょう。そんな戦略だったんです。江東・深川地区も同様です。
 私は家族と一緒に総武線のガード下に逃げ込みました。父親は警防団長をやっていたから一緒ではありませんでした。ガード下から中央通りの上空を見上げていたら、B29が1列に飛んでゆくのが見えました。それまでだいたい8000~1万メートルの高度だったのが、10階建てのビルの高さくらいでしょうか。米軍のマークも見えました。それくらい低空で飛んでいたのです。その後、昌平橋まで逃げて、さらに今は再開発になっている淡路小学校(現在は昌平小学校へ統合)へ逃げました。そのあたりは焼けていませんでしたから。神田でも内神田や神保町の本屋街は最後まで残りましたが、外神田や和泉町、東神田、岩本町などは軒並みやられました。
 亡くなった方は、火に焼かれるのもあるけれど、一酸化炭素中毒の犠牲者が多かったです。お母さんと子供が手をつないで一緒に逃げていると、バタンとお母さんが倒れてしまう。子供は、 「お母さん、どうしたの!」と泣き叫ぶ。お母さんは倒れたけれど、子供はちゃんと生きている。なぜだか分かりますか?あたりはものすごい煙で一酸化炭素が充満しているから、それを吸ってしまって一酸化炭素中毒になるのです。小さな子供は背が低いから一酸化炭素にまかれなかったんですね。
 自宅にも防空壕はありました。 道に穴を掘り、屋根を作っていて、空襲警報や警戒警報が出たらそこに入りました。でもその日は、すぐに防空壕から出て、ガード下へ避難しました。うちも木造2階建ての家が焼けました。
 防空壕に入ったまま亡くなった人も多かった。近くに神尾病院があって(現在は駿河台) 、そこの看護師さん8人くらいが防空壕に逃げ込み、中で死んでいました。外に出たら危ないと思ってずっと中にいたのですが、やっぱり煙が充満して一酸化炭素にやられたんです。
 妊娠中のお腹の大きいお母さんが3~4歳の女の子の手を引いたまま、小学校の裏で死んでいました。小学校の中に避難しようとしたけれど、中に入れなかったのです。当時、小学校は鉄筋コンクリートだから、焼けないで残るように、学校のまわりの建物を強制疎開させる、つまり建物を取り壊していたんです。
 早く逃げてきた人は小学校の中に避難して、延焼を防ぐため鉄の扉を閉めた。さらに避難してくると、扉を15センチメートルくらい開けて1人入れたらまたすぐ閉める。そうしないと火が入ってきて、せっかく中に避難した人も死んでしまいますから。小学校の中に入れた人は助かったけれど、入れなくて外にいた人は死んでしまった。 まさに、 生死の境です。 空襲が終わってから、その親子の遺体を見ました。焼けたトタン板をかぶせてみんなで手を合わせていました。気の毒でしかたがありませんでした。小学校の外壁に手をついたまま死んでいた人もいて、その跡が残っていました。人間には脂があるから、手の脂が壁に染み付いているんです。戦争が終わって3~4年は、外壁のあちらこちらが黒ずんでいました。
 芳林小学校に入れなくて、芳林公園に逃げた人たちも多かったです。 公園には貯水池があり、消火のために水を貯めていました。背負っているリュックサックに火がついているからみんな水の中に入るのですが、 水が熱湯になっている。その公園では、私の1級下の友達が亡くなりました。しばらく公園内に、ご両親が彼の名前を書いた木碑 ひが立っていました。みんなで花をあげていましたね。
 戦争は悲惨です。軍隊だけの問題ではない、一般の国民がみんな犠牲になってしまうんです。戦争は悲劇だということを再認識し、よく心に留めておいていただきたいと思います。  (「未来へつなぐバトン – 第2部体験記 空襲(PDF:5,545KB)」より)]

カメラ位置は総武線のガード下です。

カメラ北東方向に淡路小学校の校歌がモニュメントとして保存されています。

カメラ北北東方向が芳林公園です。カメラ南方向が昌平小学校(元芳林小学校)で、カメラ北西方向に芳林小学校 校歌がモニュメントとして保存されています。

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