中台稲荷神社

マーカーは中台稲荷神社です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図では、稲荷社と描かれています。

中台稲荷神社
[中台稲荷神社の由緒
中台稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、かつて当地に稲荷大神が降臨したと伝えられることから当地周辺が「トウカ渡(稲荷渡)」と呼ばれており、江戸時代には稲荷社として旧中台村の鎮守社となっていました、明治7年には村社に列格しています。(※トウカ渡について、新編武蔵風土記稿には記載がありません)
●新編武蔵風土記稿による中台稲荷神社の由緒
(中臺村)
稲荷社二
一は村の鎮守なり、共に延命寺持下並に同じ(新編武蔵風土記稿より)
板橋区教育委員会掲示による中台稲荷神社の由緒
稲荷神社
神社の創立年代は不詳です。当社の境内地は、稲荷大神が降臨した場所と伝えられ、「稲荷渡」と呼ばれていました。
江戸時代は、中台村の鎮守で、延命寺(中台三丁目)がその別当(管理者)にあたっていました。
神社に伝わる「四季農耕図絵馬」は、明治十八年(一八八五)氏子の中台東組によって奉納されたもので、一年間の農作業の様子が「田の荒起し」から「代かき」「苗とり」…稲の収穫後の「まつり」まで順次描かれています。江戸時代から明治時代にかけての付近の農家の暮らしぶりが分かる貴重な資料として、昭和五十九年、区の有形文化財に指定されました。(板橋区教育委員会掲示より)
●東京都神社名鑑による中台稲荷神社の由緒
創立年代は不詳であるが、古伝によれば志村峡田三台のうち、中台の小字「トウカ渡」に稲荷大神が降臨したと伝えられ、旧志村中台村の鎮守として、尊崇の中心となり今日に至る。文安五年(一四四八)志村城(志村熊野神社)の土豪の地侍が中台を支配していた。その名前「中岱殿」と「中岱南殿」の名で紀州熊野大社に初穂料を納入した目録と、寛文二年(一六六二)の「水帳」には境内除地三八〇坪と記載されている文献でも明らかである。古くから現板橋区中台、若木、相生町の産土神と崇められていた。(東京都神社名鑑より)  (「中台稲荷神社|板橋区若木の神社 – 猫の足あと」より)]

中台稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が中台稲荷神社参道です。