加賀藩江戸下屋敷平尾邸跡

下地図のマーカーは加賀藩江戸下屋敷平尾邸跡の外周と御府内場末往還其外沿革圖書に描かれている寺院、加賀藩江戸下屋敷平尾邸跡の碑と屋敷跡の場所を表示しています。下地図右のサードバーのマーカーポイン名をクリックすると、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。吹き出しにリンクがあれば、クリックするとその関連ページ又はポイント付近のストリートビューが表示されます。

    [加賀藩江戸下屋敷平尾邸は、延宝7年(1679年)に五代藩主である前田綱紀が、板橋宿平尾の地に6万坪の土地を拝領したことに始まります。その後、敷地の拡張がすすみ、最終的には約21万8千坪の広大な屋敷地となりました。当時、平尾邸は、江戸と周辺に所在する全ての大名屋敷の中でも最大の面積を有していました。当敷地の範囲は、現在の加賀一・二丁目と板橋四丁目の全域と、板橋一・三丁目の一部にあたります。
     平尾邸は、国許の金沢城に隣接する兼六園と同じく、池泉回遊式大名庭園として設計・整備され、藩主と家族が非日常の生活を過ごす別荘として機能していました。具体的には、狩猟や散策、保養がなされ、庭ではタンチョウヅルや唐鳥が飼育され、希少な植物の栽培も行われていました。また、藩主の参勤交代の際は、旅装から登城用の装束への着替えや江戸屋敷に住む家族との対面の場となり、幕末期には軍隊の調練や大砲製造の場としても利用されました。
     前田家は、新井白石に「加州(加賀藩)は天下の書府なり」と評されたように、藩主綱紀自らが学問を究めるなど、当時の学術事業全般に大きな足跡を残しています。その中で下屋敷平尾邸が、博物学や植物学、洋学などを実証する場となっていたことが特筆されます。
    御下屋敷惣絵図】庭園内の大池・画像リンク  (「時代を紡ぐ 「加賀藩江戸下屋敷平尾邸の拝領と前田綱紀」 | 板橋区」より)]

    [嘉永6年(1853)、加賀藩は異国船の江戸近海渡航などの政情をうけ、江戸下屋敷平尾邸において西洋流の大砲鋳造を開始します。下屋敷が鋳造場所として選ばれたのは、「御下屋敷には水車も有之、錐通候とも指支無之旨…」(「諸事要用日記」)とあるように、大砲の砲身に穴を穿つための動力として水車の動力が重要な条件となっていたからでした。この時には、藩医で蘭学者の黒川良安などが「大筒鋳造方」に任命されていますが、注目すべきは「御用聞鋳物師」として川口(現:埼玉県川口市)の鋳物師増田金太郎の名が見られる点です(「都鄙之嵐」)。これによって、実際の大砲鋳造に関わる技術指導については、幕末期に大砲を鋳造し盛んに諸藩へと納入していた川口の鋳物師がその任にあたっていたことがわかります。なお、この平尾邸内で製造した大砲は、陸海用の中・小型加農砲(キャノン砲)20門で、石神井川にかかる水車の動力を利用し、砲口を錐通している工程など、製造過程を詳細に描いた絵巻が残され、当時を知る貴重な史料となっています。
    於平尾御屋敷大砲鋳造と以水車入錐等の図・画像リンク画像リンク  (「時代を紡ぐ 「加賀藩平尾邸における西洋流大砲鋳造」 | 板橋区」より)]

    [東京都立北園高等学校校地周辺を含めて、かつて加賀藩前田家の広大な庭園を含む下屋敷が存在した。現在の校地は、下屋敷の建物があった場所と言われている。  (wikipedia・東京都立北園高等学校より)]

    時代を紡ぐ 「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」 | 板橋区」、「加賀藩下屋敷の大砲製造 | 板橋区

    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図」(絵図左下付近・加州(加賀藩)下屋敷が描かれています。)

    国立国会図書館デジタルコレクション- 御府内場末往還其外沿革圖書. [41]貮拾壹貞」[コマ番号(2/10)・松平加賀守下屋敷周辺に東光寺・観明寺・遍照寺・文殊院が描かれています。コマ番号(3/10)・松平加賀守下屋敷の上方向に東光寺・観明寺が描かれています。]

    加賀藩前田家下屋敷跡 – Google Map 画像リンク

    カメラ北北東方向に加賀前田家下屋敷跡碑と案内板があります。

    カメラ北北東方向は都立北園高等学校正門で、この付近が加賀藩江戸下屋敷平尾邸正門、カメラ東北東方向に屋敷があったようです。