マーカーは妙義神社です。
妙義神社
[豊島区教育委員会掲示による妙義神社の由緒
当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政11年(1828)に成立した「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
くだって文明3年(1471)5月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
続いて道灌は、文明9年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同11年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521-27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄12年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573-91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
境内には、寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。(豊島区教育委員会掲示より) (「猫のあしあと – 妙義神社|豊島区駒込の神社」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [40]貮拾壹貞」(コマ番号2・絵図中央左に妙義社が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図」(絵図・四つ切右上藤堂和泉守(津藩)下屋敷上方向に妙義権現と描かれています。)
カメラ西方向が妙義神社参道です。
妙義神社拝殿前のカメラです。