林田藩建部家下屋敷跡(染井霊園)

マーカーは林田藩建部家下屋敷跡です。

関連リンク – 林田藩建部家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP402・コマ番号245/553から林田藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 染井 北豊島郡巣鴨町字染井」と「抱屋敷 染井 下屋敷ノ一郭内」がこの地になります。

林田藩建部家下屋敷跡(染井霊園)
[藩祖・建部政長慶長15年(1610年)に11歳で亡父光重の後を継ぎ、摂津国尼崎郡代として700石を所領していた。 元和元年(1615年)大坂の陣で軍功をたて、同国川辺郡・西成郡に1万石を所領する大名に取り立てられ、尼崎藩が成立した。元和3年(1617年)転封により林田に移り、林田藩が成立した。建部氏は外様大名でありながら、明治維新まで10代政世まで250年余りに渡り林田藩を治めた。また3名の藩主が大番頭となっている。中でも、3代・建部政宇は伏見奉行になり、後に寺社奉行にもなっている。7代・建部政賢寛政6年(1794年)藩校・敬業館を開いた。9代政和は大番頭として京都、二条城守護に就き、藩校敬業館振興のため、藩校の講師に河野鉄兜(こうの てっとう)を迎えた。この敬業館の講堂は文久3年(1863年)に焼失ののち復興。講堂は現存しており平成4年(1992年)姫路市指定文化財に指定されている。林田藩は明治4年(1871年)廃藩置県により林田県となる。その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。その後建部氏は明治17年(1884年)子爵となり華族に列せられた。  (wikipedia・林田藩より)]

染井霊園
[明治5年に雑司ヶ谷霊園青山霊園とともに開設された公営の共同墓地。元は建部内匠頭(たけべたくみのかみ)下屋敷跡で、西側には谷戸川源泉の長池があったそうです。二葉亭四迷高村光雲岡倉天心など著名人の墓があります。春には、100本近くのソメイヨシノがいっせいに咲きます。  (「桜・ツツジの花香る町散策コース|豊島区公式ホームページ」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図中央上方向に建部内匠頭(林田藩建部家)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 駒込村一円之絵図 : 安政三・1856年」(コマ番号2/4・絵図下中央左に建部内匠頭下屋敷が描かれています。)

染井霊園 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は花屋山田屋本店前染井霊園入口で、カメラ方向道路両サイドが林田藩建部家下屋敷跡になります。

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