本陣跡碑

マーカーは本陣跡碑です。

本陣跡碑
[板橋宿の上宿には宿屋が集まり、仲宿には本陣や問屋場あった。平尾宿は板場宿の発展にともない新たにできた宿である。  (「江戸切絵図散策」より)] 

[飯田本陣跡 :飯田新左衛門家が務めた本陣。当家は名主と脇本陣を兼職していた飯田宇兵衛門家から分家したものである。文久元年(1861年)、皇女和宮江戸城に入る前夜をここで過ごした。建物は明治23年(1890年)、失火によって焼失してしまい、今は「板橋宿本陣跡」の碑が所在を示すのみである。  (wikipedia・板橋宿より)]

[板橋宿中宿名主飯田家跡
当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主問屋・脇本陣を務めました。世襲名は宇兵衛。飯田家は、大坂の陣豊臣家に仕えたとされ,その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃の宿場絵図には,当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が設けられており、元和寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鷹狩りの際に使用されたと見られます。そして当家が御茶屋守としてこれを管理していたと思われます。なお、御林40町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。そのような中で、文久元年(1861)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応4年(1868)の岩倉具視率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。平成20年3月 板橋区教育委員会  (「中山道餐歩記-1へ」より)]

資料リンク
江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「板橋駅」(13-18)、「板橋駅解説・右ページ左から4行目から」(13-16)、「乗蓮寺 相生杉 女男松 板橋駅」(13-20)、「弧雲山乗蓮寺解説・左ページ中程まで」(13-19)
板橋駅(拡大図)

乗蓮寺 相生杉 女男松 板橋駅(拡大図)

[乗蓮寺は赤塚に移る前は板橋区仲宿にあった。]

板橋宿本陣飯田新左衛門家跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向に本陣跡碑があります。本陣は左隣・カメラ北北東方向のスーパー「ライフ」の場所にありました。

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