マーカーは東光寺です。
東光寺
[浄土宗寺院の東光寺は、丹船山薬王樹院と号し、延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が、船山(現板橋3-42)付近に開山したと伝えられます。延宝7年(1679)、加賀藩前田家下屋敷の板橋移転に伴って当地へ移転しました。北豊島三十三ヶ所霊場22番札所です。
『板橋区教育委員会掲示よる東光寺の縁起
創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。境内には、昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔と平成7年度、板橋区の有形文化財に登録された石地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の墓などがあります。(板橋区教育委員会掲示より)』 (「猫のあしあと – 東光寺」より)]
[室町時代の創建と伝わる浄土宗寺院です。境内には、青面金剛のみごとな彫刻がほどこされた寛文2年(1662)の庚申塔や、江戸時代に平尾一里塚上にあったと伝わる石造の地蔵菩薩座像、明治時代になって板橋に移り住んだ子孫が建てた戦国時代の武将宇喜多秀家の供養塔があります。
宇喜多秀家供養塔
板橋区登録有形文化財(歴史資料) 平成11年3月10日登録
宇喜多秀家は、備前岡山の大名で、豊臣秀吉の信任が篤く、五大老にも任命されました。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、西軍の大将として東軍と戦いましたが、敗れて八丈島へ流罪となり、罪を許されることなく明暦元年(1655)に83歳で亡くなりました。
明治5年(1872)11月、明治政府から罪を許された秀家の子孫は、秀家の妻が前田利家の娘であった縁により、前田家から約2万坪の土地と当面の生活費を与えられて、旧加賀藩下屋敷跡に入植しました。秀家の供養塔は、この時に建立されたと考えられます。
当初は、現在の板橋四丁目1番あたりに祀られていましたが、その後場所を点々と変え、昭和33年に一族の菩提寺である東光寺の境内に移設されました。
供養塔は小松石製で、「秀家卿」の文字が隷書(れいしょ)で彫られていることや、両脇の梵字が本式の薬研彫(やげんぼり)で彫られているなど、腕の良い職人によって造られたことがうかがえます。
東光寺・画像リンク、宇喜多秀家供養塔・画像リンク (板橋区ホームページ – 東光寺のご案内)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図」(絵図左下付近・加州(加賀藩)下屋敷の下に東光寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [41]貮拾壹貞」(コマ番号2/10・地図左端方向に東光寺が描かれています。)
カメラ南東方向が東光寺山門です。
東光寺本堂前のカメラです。