板橋

マーカーは板橋です。

板橋宿
[板橋宿(いたばし-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて1番目の宿場(武蔵国のうち、第1の宿)。 同時に、川越街道川越・児玉往還)の起点でもある。所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村。 現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、江戸四宿の一つとして栄えた。 江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。
板橋
板橋は、仲宿付近の石神井川に架けられ、地名「板橋」の由来とされる橋である。その名は『義経記』等の文献の中で、平安時代の昔より既にあったものとして登場する。 古代から近代にかけてのものは文字どおり板張りの木橋、江戸時代のものは、長さ9間(約16.4m)、幅3間(約5.5m)の緩やかな太鼓橋で、歌川広重の浮世絵や長谷川雪旦の『江戸名所図会』にも描かれている。 橋の形は明治以降も変わらなかったが、昭和7年(1932年)を境に以後はコンクリート橋になっている。 現在の橋は昭和47年(1972年)に完成。コンクリート製ながら、欄干に木目模様を施して雰囲気を演出している。 橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」「日本橋から十粁六百四十三米」と記された標柱と、案内板がある。 現在は板橋十景の一つとされている。
『木曾街道 板橋之驛』天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。ファイル:Kisokaido01_Itabashi.jpg
画面の左端、道の中央に「是板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。 (wikipedia・板橋宿より)]

時代を紡ぐ 「「板橋」の架け替えと宿場の人々」 | 板橋区

板橋 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は板橋で、カメラ北方向が上宿で、南方向が仲宿になります。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図」(絵図左下・石神井川に架かる橋が板橋です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [41]貮拾壹貞」(コマ番号2/10・地図左端に板橋が描かれています。)

「江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・板橋駅

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「板橋駅」(13-18)、「板橋駅解説・右ページ左から4行目から」(13-16)、「乗蓮寺相生杉女男松」(13-20)、「弧雲山乗蓮寺解説・左ページ中程まで」(13-19)

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