正受院(不道の滝跡)、近藤重蔵石像

マーカーは正受院です。

正受院(不道の滝跡)
[浄土宗の正受院は、思惟山浄業三昧寺と号し、不動即我の密法を修していたという僧学仙房が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を創建したと伝えられています。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場4番札所、北豊島三十三ヶ所霊場23番札所です。

『北区文化財案内による正受院の縁起
思惟山正受院浄業三昧寺といい、浄土宗に属し、本尊阿弥陀如来像です。弘治年間(1555-58)大和国に住み不動即我の密法を修していたという学仙房という僧が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を開いたと伝えられています。(新編武蔵風土記稿
本堂の向かって左側手前に、近藤守重甲冑姿石像があります。これは、もと石神井川の洞窟の中にあったもので、明治のはじめ、今の場所に移されたものといわれています。近藤守重(1771-1829)は江戸時代後期の北地探検家で、通称近藤重蔵寛政10年(1798)松前蝦夷地御用となり、数回にわたり千島方面を探検しました。この石像は、近藤守重が文政5年(1822)から9年まで、友人であった滝野川の地頭野間正順の領地内、正受院東隣に文庫を建て、滝野川文庫と名付けて自らもここに住んでいたとき、これを作ったとされています。(滝野川町誌ほか)
この本堂の裏側は、不動の滝跡です。「新編武蔵風土記稿」は、この滝について「病者ツトイ来テ浴セリ」と記しています。 (「猫のあしあと」より)]

文化財説明板石造近藤守重坐像 | 東京都北区

不動の滝跡
[不動の滝は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峽から坂道を下った石神井川の岸にありました。「江戸名所図会」は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり、室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置したと伝えられます。不動の滝は、滝の傍に不動尊が祀られていたことから付けられた名称ですが、今も、その跡が僅かに偲ばれます。
正受院は赤ん坊の納骨や供養をしていることから「赤ちゃん寺」と呼ばれています。 (「文化財説明板不動の滝跡 | 東京都北区」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図左中央付近に不道の滝の記述がみられます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [41]貮拾壹貞(安政三年・1856年)」(コマ番号7/10・絵図中央下方向、石神井川上に正受院が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡滝野川村絵図面」(絵図下左に正受院が描かれています。)

(名所江戸百景・ 王子不動之滝ファイル:100_views_edo_047.jpg)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・不動瀧正受院

江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「不動瀧正受院」(15-36)、「瀧不動尊解説・右ページ5行目から」(15-37)

正受院 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が正受院参道です。

正受院山門前のカメラです。

近藤重蔵
[近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) – 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。
は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。
明和8年(1771年)、御先手組与力・近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山儒学を師事。同門に太田錦城小川泰山太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、60余種1500余巻の著作を残している。
父の隠居後の寛政2年(1790年)に御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務。寛政6年(1794年)には、松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。寛政7年(1795年)、長崎奉行手付出役、寛政9年(1797年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進。
寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内千島列島択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛国後から択捉間の航路を調査させる。
享和3年(1803年)、譴責により小普請方。文化4年(1807年)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、将軍・徳川家斉に謁見を許される。その際札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。
文化5年(1808年)に江戸城紅葉山文庫書物奉行となる。しかし自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政2年(1819年)に大坂勤番弓矢奉行に左遷。文政4年(1821年)に小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。
重蔵は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した。目黒新富士、近藤富士、東富士(別所坂(目黒新富士跡))などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。 文政9年(1826年)に上記の三田の屋敷の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられる。
文政12年6月16日(1829年7月16日)死去。享年59。死後の万延元年(1860年)に赦免された。  (wikipedia・近藤重蔵より)]

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