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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP639・コマ番号363/553から津藩屋敷の変遷について記載されています。P640・コマ番号364/553「下屋敷 染井 北豊島郡巣鴨島字染井」と「抱屋敷 染井 下屋敷ノ一郭内」がこの地になります。
[駒込染井村には伊勢津藩藤堂家が下屋敷・抱屋敷(約8万坪:26万m2)を構えていた。 (wikipedia・駒込より)]
[藤堂家下屋敷である。明暦の大火(世に言う振袖火事)によりこの地に居を構える。藤堂家は、伊勢国(現三重県)に32万石余りの所領を持つ外様大名で江戸城の設計をしたといわれる藤堂高虎を藩祖とする。染井の屋敷は下屋敷・抱屋敷を併せ6万8千坪と広大で、約2,000人の家臣が居住し、染井屋敷と呼ばれていた。
江戸時代の駒込巣鴨地域にはいくつかの大名屋敷があったが、染井通りの南側部分に面していた(抱屋敷も含む)のが、伊勢国藤堂(津)藩江戸屋敷(染井屋敷)である。第2代藩主藤堂高次の治世期にあたる万治元年(1658)に成立した。
駒込・巣鴨の園芸を代表する伊藤伊兵衛は、かつてこの屋敷に出入りする下男的な存在であり、藤堂家で不要になった花木を自分の庭に運んできて培養し、霧島つつじ・椿・楓など数多くの種類を保有するようになったといわれている。この屋敷図は下屋敷内の様子を描いたものとして貴重である。
文献※によると表居間、奥部屋、茶屋、(能)舞台、米蔵、長屋といった建物や、辻番所、所塀、もがり塀などの区画施設の名が見られ、第二代藩主高次が動物好きであったことから鳥長屋が八棟あった。
このほか、一時期ヤマアラシ、鶴、将軍家から下賜された白熊も飼っていたといわれている。屋敷内には大型の塀や堀が張り巡らされ霧島ツツジのほか、紅葉や松、熊笹などが植えられており、樹木はいずれも大木だったようである。
作庭は元禄期頃で、侘びは少なく「武気」「勇気」のある庭であったと評している。
また、石造物が数多くあり、灯籠のほか、不動明王や具利伽羅龍、獅子に乗った観音のような像等やや変わった珍しいものであったと伝えられている。
(※「江戸周辺の大名屋敷 小川祐司」) (「A.江戸 駒込・染井遊楽 – ADEAC」より)]
[境内掲示による旧丹羽家腕木門について
旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが、格式のある門です。
この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。
当初の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。また、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても不思議はない規模と構造といえます。解体工事の過程で墨書が発見され、弘化四年(一八四七)、嘉永六年(一八五三)、安政六年(一八五九)の三回修理が行われていたことが判明しました。少なくとも建築年代は弘化四年以前ということになります。
この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに面して建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため現在地に曳屋(建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した時の少なくとも二回移動しています。また昭和一〇年(一九三五)の主屋の増改築とあわせて門の屋根を、杮葺き(薄い木片を重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれています。
一方、親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当初からの部材と考えられ、板扉に見られる技法から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。
江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を物語るシンボル的存在として長年地域の人々に親しまれています。
このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、豊島区における貴重な文化遺産であることから、平成一九年八月三日、豊島区指定有形文化財になりました。(境内掲示より) (「旧丹羽家腕木門|旧津藩藤堂家下屋敷の裏門 – 猫の足あと」より)]
「(2009年)藤堂家染井屋敷内の塀跡か? 大型柱穴列を発見 – としま遺跡 …」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図(嘉永7年・1854)」[コマ番号2/13・絵図中央右上に藤堂和泉守(藤堂高猷)下屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション -御府内場末往還其外沿革圖書. [40]貮拾壹貞(安政3年・1860)」(コマ番号2/7・絵図中央右、コマ番号5/7・絵図右上に藤堂和泉守(藤堂高猷)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は2009年津藩藤堂家下・抱屋敷跡遺跡調査地点前のカメラです。