滝野川反射炉(醸造試験所・鹿島紡績所)跡地

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滝野川反射炉
[関口製造所で製造された大砲は青銅製であったが、当時の欧州では鉄製大砲の時代を迎えていた。そのため、元治元年(1864年)、関口に反射炉を建設することが計画されたが、低湿地のため反射炉を置くには不適であった。他に適地を求めたところ滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所所在地)に建設を決定し、武田斐三郎が責任者となり工事が進められた。耐火煉瓦は伊豆梨本から運び、器材は韮山反射炉で使用していたものを移転させ、慶応2年(1866年)には完成した。
明治元年(1868年)、新政府は関口製造所、滝野川反射炉を接収し軍務官の管轄下に置き、兵器の製造修理を行った。1870年3月3日(明治3年 2月2日)、兵部省に造兵司が新設され関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、同年10月(旧暦)、一部の設備を吹上上覧所跡に移転した。  (wikipedia・滝野川反射炉より)]

醸造試験所(鹿島紡績所他)跡地
[元治元年(1864)、幕府が大砲を製造のために反射炉と錐台(砲身の穴あけ機)を設置しました。その動力用水車の水を得るために千川用水巣鴨から分水。反射炉は完成しましたが、幕府倒壊により使用されなかったようです。(反射炉工事は中断という説あり)
 この地と水に着目したのが鹿島万平で、ここに民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)を設置。明治5年(1872)から操業を開始し、東京紡績に吸収合併される明治21年まで操業しました。金剛寺(紅葉寺)に「鹿島万平翁之碑」(明治38年建立)があります。
 鹿島紡績では、千川用水で水車(直径約6.2m、イギリス製)を回すだけで水は全然汚れていませんでした。渋沢栄一はこの水は紙抄きに使用可能と判断し、この水を利用して王子に抄紙会社を設立することを決断しました。大蔵省紙幣寮印刷局(後の印刷局抄紙部)も千川用水に着目し、抄紙会社が契約していた水の半量を召し上げ、明治9年に王子に製紙場を設置。更に、明治 13年(1880)に鹿島紡績所の隣に配合分科を設置し、日本最初の稲ワラパルプの製造を開始しましたが、明治22年に本部内(王子工場)に移転しまし た。
 更に、明治37年(1904)に大蔵省が醸造試験所を設置。平成7(1995)年に主なる研究機能を東広島市に移転し、醸造研究所と名称を変更。さらに平成13年に独立行政法人酒類総合研究所として新たにスタートし、平成16年に創立100周年を迎えました(紙) *文章は、2008年4月24日の配付資料より  (「醸造試験所(鹿島紡績所他)跡地|散策ガイド|飛鳥山3つの博物館」より)]

[鹿島紡績所の水利用
1870(明治 3)年 2 月兵部省が管轄していた滝野川村の反射炉跡地の内1,347 坪 4 合余り を民部省通商司が受取り、それを通商会社 (総代増田嘉平衛・中村庄平衛・宮田忠蔵 )が借りた。ここには 3 間と 10 間、 4 間と 10 間、4 間と 9 間の大きさ の小屋が 3 ケ所あったが、それも借り受けて 鹿島紡績所の建設を始めた。なお、残っていた旧反射炉の機械は大阪へ搬送した。その後、敷地は東京府へ移管、通商会社も東京商社と改称するが、紡績所は鹿島万平一人が引受けた。1874(明治 7)年 5 月敷地は東京府から払い下げになり万平の私有地になる。ここを流れていた旧反射炉分水 66 坪 8 合を水車に使用した。  (「公益財団法人とうきゅう環境財団 – Ⅰ.千川用水を使用した製造所(P9~P72 )」より)]

佳景探訪 – 赤レンガ酒造工場 (東京都北区)」、「赤レンガ酒造工場 リーフレット

醸造試験所跡地公園 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向が醸造試験所です。