縁切り榎

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縁切り榎
[縁切榎(えんきり-えのき)は、街道の目印として植えられていた樹齢数百年という榎(エノキ)の大木で、枝が街道を覆うように張っていたという。 その下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁となると信じられた不吉の名所であったがしかし、自らは離縁することも許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきよすがであり、陰に陽に信仰を集めた。 木肌に触れたり、樹皮を茶や酒に混ぜて飲んだりすると、願いが叶えられる信じられたのである。徳川家降嫁する五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、および、和宮(かずのみや、親子内親王)の一行は、いずれもここを避けて通り、板橋本陣に入ったという。 和宮の場合、文久元年(1861年)4月、江戸幕府公武合体政策の一環として将軍徳川家茂に輿入れすることとなり、関東下向路として中山道を通過。盛大な行列の東下に賑わいを見せるのであるが、板橋本陣(飯田家)に入る際は不吉とされる縁切榎を嫌い、前もって普請されていた迂回路を使って通過したとのことである。 なお、和宮の一行が菰(こも)で木を包んで真下を通ったとの話があるが、迂回路を造ってそちらを通ったことが史料で確認されている。現在の榎は3代目の若木で、場所も若干移動しているが、この木に祈って男女の縁切りを願う信仰は活きている。  (wikipedia・板橋宿より)]

[江戸時代には、この場所の道を挟んだ向かい側に旗本近藤登之助の抱え屋敷がありました。その垣根の際には(えのき)と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃から縁切り榎木と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなる事を恐れ、その下を通らなかったと言います。板橋宿仲宿の名主であった飯田侃(かん)家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)下向の際には五十宮(いそのみや)などの姫君下向の例にならい、榎を避ける為の迂回路が作られました。そのルートは、中仙道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る1kmの道のりです。なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを(むしろ)で覆う事と命じた触書の内容が伝わったものと考えられ、実際は筵で覆った下を通った事はなかった。男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮をそぎ取り煎じ、密かに飲ませるとその願いが成就されるとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれている。 板橋区教育委員会、平成18年3月の説明版より。  (「第136話落語「縁切り榎木」(えんきりえのき)」より)]

[1749年(寛延2年):五十宮倫子(いそのみやともこ)女王が徳川家治将軍との婚儀に赴く行列が縁切榎前を通過しないための迂回路(根村道)が、現在の当町域内に普請される。
迂回路は1804年(文化元年)の楽宮(さざのみや)喬子女王と徳川家慶将軍の婚儀、1861年(文久2年)の和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と徳川家茂将軍との婚儀の際にも使用された。現在の国際興業バス富士見町停留所付近から環七通りを渡り、当町域と大和町との境を下り、日曜寺から愛染通りを経て上宿に至る道であった。
和宮親子内親王の際には、「縁切榎の周りを菰で覆い、見えなくさせた上で通行させた」という俗説があるが、板橋宿仲宿名主、飯田侃(かん)家の古文書に、この時も先例に倣い根村道を通行したことが記録されている。菰覆いの伝承は、宿泊受け入れに際して飯田侃家が「不浄の物は筵で覆うこと」という通達を宿場関係者に出したことと混同されて発生したものと考えられている。  (wikipedia・双葉町_(板橋区)より)]

近藤貞用
[近藤 貞用(こんどう さだもち、慶長11年(1606年) – 元禄9年2月2日(1696年3月5日))は、江戸時代初期の武士。江戸幕府旗本、鉄砲頭。近藤季用の子。通称は登助。
駿府城にあった徳川家康に御目見えし、席上で家康の11男徳川頼宣に仕えるようにいわれ、これに仕えた。また、その頃は江戸に在住していた。慶長17年(1612年)、父の季用が死去すると家督を継ぐ。頼宣隊に属し大坂冬の陣に参加。元和5年(1619年)8月、頼宣が紀州藩に移封となったので、紀伊国に赴き領地は代官に支配させた。
元和6年(1620年)、祖父の近藤秀用より呼び戻され3140石を分知され、寛永8年(1631年)に秀用が死去すると一族に分知され、貞用は5450石を分知される。延宝5年(1675年)井伊谷と花平の山境、また金指と井伊谷の境界争いがあり、自らその箇所に出かけて内偵をし、陣屋に関係者を呼んで裁定した。このように領民の意を自ら聞いたり、道路の整備、市場の開設など善政を施した。また、江戸においては、明暦3年(1657年)の明暦の大火では働きに秀でて江戸幕府より賞賛され、水野成之ら旗本奴と幡随院長兵衛ら町奴達の暴挙の際にはこれを征している。
長男(嫡男)の昌用は、寛文3年(1663年)23歳で早世し、孫の徳用(昌用の長男)に後を継がせた。延宝7年(1679年)8月、百間四方の陣屋が10年10ヶ月かけて完成し、同年9月2日に徳用とともに新しい陣屋に入った。
元禄9年(1696年)、金指陣屋で91歳で死去する。宝林寺(現・浜松市北区細江)に葬られた。法名は棲雲院語石性訥居士。宗家・金指近藤家は、徳用のあと、昔用、寧用、英用、壽用、有用と続く。  (wikipedia・近藤貞用より)]

[歌舞伎の幡随院長兵衛の芝居に出てくる近藤登之助としても知られる、旗本退屈男のモデルでもある。  (「近藤縫殿助用随・旗本近藤家」より)]

「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [30]貮拾貞(寛永七年・1854年)」(コマ番号8/13・絵図四つ切左上に近藤石見守抱屋敷が描かれています。その上の道に坂の印が描かれ、岩ノ坂と記述されている場所が、縁切り榎の付近です。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図で、兵器庫の左の中山道 清水から根付の右道を通り、日曜寺智清寺前を通り上宿に抜ける道が皇女和宮の迂回ルートになります。

縁切り榎 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が縁切り榎です。

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