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郷蔵跡と稲荷社
[江戸時代、ここには袋村の郷蔵(ごうぐら)がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。
嘉永3年(1850)8月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建 物の背後に杉の立木が描かれています。この絵図に関する古文書によれば、これは火事を防ぐための火除(ひよけ)の立木であると書かれています。また、このときの村明細帳によれば、郷蔵は「籾稗貯穀囲蔵(もみひえちょこくかこいぐら)」と呼ばれ、籾八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えられ、このほかに稗四十四石の積立計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年貢米の保管というよりは、ど ちらかというと災害や飢饉の際に、村の人々が飢餓から自分達を守 る備荒貯穀(びこうちょこく)を目的とした郷蔵だったことがわかります。
現在、ここには大正7年(1918)3月に建立された石造の鳥 居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地 となって います。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の 「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは、「御蔵」ともいう郷蔵の 「御」を「オ」といわずに「ゴ」と言った結果とも考えられます。稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また、現在は、「穀蔵」稲荷と称されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれて おり、かつては、ここが郷蔵であったことを示唆しています。 (「文化財説明板郷蔵跡と稲荷社|東京都北区より)]
小袋庚申堂の石造物群
[この地域は、袋村と称され、村内は大袋・小袋の辻子(づし)と呼ばれる二つの地域からなっていました。ここは小袋という辻子だったので、庚申堂も小袋庚申堂とよばれるようになりました。庚申堂には稲荷社の社殿のほうから次のような石造物が安置されています。
●弘法大師供養塔(こうぼうだいしくようとう)
阿弥陀三尊種子庚申待供養塔(あみださんぞんしゅじこうしんまちくようとう) 元禄15年(1702)11月
●阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔(あみださんぞんしゅじせんにちねんぶつくようとう) 寛文8年(1668)2月
●庚申待供養青面金剛立像(こうしんまちくようしょうめんこんごうりゅうぞう) 宝永元年(1704)9月
庚申信仰についての石造物が2基あります。これは人の体のなか に住む三尸(さんし)という虫が干支でいう庚申の日の夜、体内から抜け出して天帝に悪事を告げ、人の命を縮めてしまうというので、虫が体内から出ないようにと一か所に集まって夜を徹して供養をおこなった記念に、袋村講中の人々によって建てられたものです。
弘法大師の供養塔は、真言宗を開いた空海の遠忌(おんき)を記念して建てられましたが、一部が破損していて造立年代や造立者は詳らかではありません。
千日念仏の供養塔は、時間や回数をきめて千日間、南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)をとなえれば浄土に往生できるという信仰儀礼の記念に建立された塔です。袋村を中心とする16か村の名主や結衆(けっしゅう)によって建立されていますが、このような複数の村の人々によって建てられた供養塔はあまり例がなく、貴重な文化財といえます。
これらは昔、現在の赤羽北児童遊園入口付近の路傍にありましたが、昭和30年代の前半、現在地に移されました。 (「文化財説明板小袋庚申堂の石造物群|東京都北区」より)]
カメラ西方向が郷蔵跡と稲荷社で、稲荷社前右の小屋が小袋庚申堂の石造物群です。
郷蔵跡と稲荷社案内板(Google Map 画像)
小袋庚申堂の石造物群(Google Map 画像)
小袋庚申堂の石造物群案内板(Google Map 画像)