金剛寺

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マーカーは金剛寺です。

金剛寺
[金剛寺(こんごうじ)は、東京都北区滝野川3丁目にある真言宗豊山派の寺院。
歴史
寺伝によると、弘法大師・がこの地を遊歴し自ら不動明王像を彫ったと言われている。 この不動像は現在当寺院の本尊になっているものである。
その後、平安時代末期・源頼朝の時代に源頼朝自身が当地に布陣を張り、堂宇を建立また田園を寄進したと伝えられている。
その後、荒廃したが戦国時代天文年間に阿闍梨宥印という僧が再興し、真言宗の寺院にしたと言われている。
当寺院一帯は江戸時代から紅葉の名所として知られていたことから、当寺院は紅葉寺の別称でも知られている。
また、当寺院付近は豊島氏の支族滝野川氏の居館である滝野川城跡であるとも言われ、滝野川の歴史を知る上でも価値があるものとされている。
また、かつて当寺院領域内には松橋弁天と呼ばれる弁才天を祀った祠があった。
松橋弁天
松橋弁天は、当寺院傍に流れる石神井川の崖下にあった洞窟に祀られていた弁才天である。弁才天は弘法大師の作とも言われ、当洞窟付近はかつては金剛寺の領地内であった。なお松橋は当地の旧名で、弁才天は岩屋にあったことから岩屋弁天とも言われた。かつて当地に布陣した源頼朝が弁才天に太刀を奉納したと言われているが、太刀も弁天像も現在はないとされている。さらに弁天像を納めていた岩屋も、1975年頃に石神井川の護岸工事が行われた際に取り壊された。
当地付近は滝も多く、江戸時代から滝遊びや紅葉の見物さらに松橋弁天の参拝などで多くの人が来ていたと言われている。江戸市中でも松橋弁天の存在は良く知られており、現在でも松橋弁天への道標が区内に残されている。
山門・wikipedia-photo  (wikipedia・金剛寺_(東京都北区)より)]

[真言宗豊山派の金剛寺は、瀧河山松橋院と号し、弘法大師(空海)が遊歴した際に創建したと伝えられており、治承年中(1177-81)には源頼朝が当地に布陣したとも記されています。当寺の弁才天は、岩屋弁天、松橋弁天とも呼ばれ、多くの信仰を集めた他、当寺が紅葉の名所であったことから、紅葉寺とも呼ばれていました。豊島八十八ヶ所霊場43番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場16番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場1番札所、北豊島三十三ヶ所霊場31番札所です。
●源頼朝の布陣伝承地
治承4(1180)年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総下総を経て隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神(大國魂神社)に向かい、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。この途次の10月、頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれてます。松橋とは、当時の金剛山の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸の岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は、弁財天の祈願して金剛寺の寺域の弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。(北区教育委員会掲示より)  (「金剛寺|北区滝野川にある真言宗豊山派寺院、岩屋弁天、松橋弁天、紅葉寺猫のあしあと」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [41]貮拾壹貞」(コマ番号7/10・絵図中央右方向、石神井川左に金剛寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図」(絵図左端中央グ金に金剛寺が描かれています。)

金剛寺 – Google Map 画像リンク」、「滝野川城跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が金剛寺山門です。

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