マーカーは静勝寺です。
静勝寺
[静勝寺(じょうしょうじ)は、東京都北区赤羽西1丁目にある曹洞宗の寺院。
歴史
稲付城
当寺院を含め元々当地一帯は稲付城(いねつけじょう)と呼ばれていた城があったところと言われている。一説によると戦国時代に太田道灌が築城したと伝わっている。(扇谷上杉氏によるとの説もある。ただ、太田道灌は扇谷上杉氏の家臣だったので、彼も少なからず関わっていたと言われている。)
その後、道灌の孫である太田資高及びその子太田康資が二代にわたり当地に館を築いていた。
その後、稲付城は後北条氏のものになり、後北条氏滅亡後は、江戸に入った徳川家康の命により廃城になったとされる。
寺の歴史
静勝寺の由来は太田道灌の死後、太田道灌の師雲綱和尚が1504年に城の一角に彼を弔う堂を建立して道灌寺とした事にはじまる。その後明暦元年(1655年)、道灌の子孫の太田資宗が堂などを整備して中興、太田道灌とその父・太田資清の法号によって寺号を自得山静勝寺と改めたと言われている。
江戸時代を通じて静勝寺は太田氏の菩提寺とされ、道灌堂(太田道灌像を祀るお堂。1715年建立。)旧本堂(現在の弁天堂。1694年建立。)などを造営するなど深くかかわっていた。
その後関東大震災後の1928年に、現在の本堂が完成。観音堂が2007年に建立された。
稲付城跡を含め、当寺院一帯は東京都の史跡になっている。
稲付城跡・wikipedia-photo、山門・wikipedia-photo (wikipedia・静勝寺より)]
稲付城跡
[稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地(よけち)検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城には孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。 (「稲付城跡|東京都北区」より)]
「静勝寺|北区赤羽西にある曹洞宗寺院、稲付城跡、北豊島三十三ヶ所霊場 猫の足あと」
資料リンク
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「静勝寺」(15-39)、「自得山静勝寺解説-1・右ページ最終行から」(15-37)、「自得山静勝寺解説-2・左ページ2行目まで」(15-38)、「太田持資含雪亭」(15-40)
静勝寺(拡大図)
太田持資含雪亭(拡大図)
「静勝寺 – Google Map 画像リンク」、「稲付城跡 – Google Map 画像リンク」、「稲付城跡碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向石段上が静勝寺山門です。参道右に稲付城跡碑があります。
カメラ北方向が静勝寺本堂です。