マーカーは龍福寺です。
龍福寺
[ご本尊は大日如来。宗派は真言宗智山派。薬王山東光院龍福寺と号しています。
本寺は、室町時代末に袋村(現北区赤羽)の真頂院の僧運珍が隠居寺として創建したのに始まるといわれています。その後の寺暦について詳細は不明ですが、19世紀初頭の「新編武蔵風土記稿」に末寺として興隆寺や教性院があげられているので、この頃には寺勢いを誇る寺となっていたことがわかります。
本寺に伝わる「薬師縁起」には、薬師堂に祀られている薬師如来が天長年間(824-834)に台地下の七々子崎と呼ばれる荒川の入り江で発見されたことや、小豆沢の地名が、平将門への貢物を積んだ舟がここで沈み、その際積荷の小豆が流出したことに由来していることが書かれています。
本寺には、かつて二十余基の板碑があって、板碑寺とも呼ばれていましたが、先の大戦の空襲で、その多くが破損し、現在では昭和58年度に板橋区の指定文化財となった建長7年(1255)の板碑など7基が残るだけです。
なお、当寺は豊島八十八ヶ所霊場の第86番札所となっています。(板橋区教育委員会掲示より) (「龍福寺|板橋区小豆沢にある真言宗智山派寺院、小豆沢地名由来の伝承 …」より)]
[室町時代末に袋町の真頂院の住職運珍和尚が、創建したと伝わる真言宗寺院です。境内には、平安時代に台地下にひろがっていた七々子崎という入江で発見されたとの縁起をもつ薬師如来を祀っています。建長七年(1255)の板碑など数基の板碑があって、「板碑の寺」として有名です。
龍福寺建長七年板碑
板橋区指定有形文化財(考古資料) 昭和59年2月22日指定
板碑は中世に造立された板状の供養塔の一種で、造立の目的は死者の冥福を祈る追善供養や生前に死後の菩薩のための仏事を行う逆修供養(ぎゃくしゅうくよう)が主なものとなっています。区内に所在するものは、埼玉県の秩父地域で産出される緑泥片岩(りょくでいへいがん)を石材とする武蔵型と呼ばれるもので、そこに造立年月日や法名、仏を表現する種子などが刻まれています。
この板碑は、区内で2番目に古い建長7年(1255)に造立された、高さが160cmの大型のもので、表面には「成善」の名前のほかに、梵字(ぼんじ)のキリーク(弥陀)を主尊とし、それにサ(観音)とサク(勢至)を配した、阿弥陀三尊が刻まれています。
龍福寺山門・画像リンク、龍福寺建長七年板碑・画像リンク (「龍福寺のご案内 | 板橋区」より)]
カメラ北方向が龍福寺山門です。
龍福寺境内のカメラで、カメラ北北西方向が本堂、カメラ西南西方向が薬師堂、カメラ南南東方向に山門、カメラ南東方向に鐘楼があります。
龍福寺山門前お堂のカメラです。