マーカーは大雄寺です。
大雄寺
[日蓮宗寺院の大雄寺は、長昌山と号し、慶長9年神田土手下に創建、万冶元年当地へ移転しました。伊豆国玉沢妙法華寺末の江戸触頭を勤めていました。境内には高橋泥舟の墓があります。
高橋泥舟墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で江戸幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。
佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
翌4年1月「鳥羽・伏見の戦い」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、十五代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。(台東区教育委員会掲示より) (「猫のあしあと – 大雄寺」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図右下・上野山内の右・谷中八軒町右に大雄寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [33]貮拾壹元」(コマ番号5/7・地図右中央付近に大雄寺が描かれています。)
カメラ西南西方向が大雄寺山門です。