マーカーは子規庵です。
子規庵
[子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。明治27年正岡子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。
尚、子規庵保存に門弟たちが尽力した様子をしるした「子規庵要記」(寒川鼠骨著 六法出版)が本年3月に刊行されました。 (「(財)子規庵保存会 - 子規庵について」より)]
[19日で没後110年目を迎える俳人・正岡子規。短い生涯で詠んだ2万数千の俳句の 中に「加賀様を大家に持つて梅の花」という一句がある。意味を調べてみると、子規が晩 年を過ごした「子規庵(しきあん)」(東京都台東区根岸)は加賀藩の下屋敷だったと知 った。前田家の一角に住み、病を伏して創作に励む子規は、「加賀様」への敬意を示す多 くの句を残していた。(森田奈々)
「子規の終生の地が加賀藩の屋敷であることは、意外と知られていない事実です」。こ う語る金沢学院短期大学の藏角利幸名誉教授が子規と加賀藩との縁を教えてくれた。子規が、加賀藩下屋敷のある台東区根岸に移ったのは、日本新聞社の社長、陸羯南(く がかつなん)の紹介という。1892(明治25)年2月、子規は根岸にある陸の家の西 隣に引っ越し、同12月に日本新聞社に入社。さらに1894(同27)年2月、陸家の 東隣に位置する加賀藩下屋敷の一角に転じた。子規選集「子規の一生」によると、家賃は1円50銭ほど上がるが、子規は当時、新聞 「小日本」の編集責任者となり、給料が上がったことから決断したらしい。引っ越しにあ たっては親友の夏目漱石と、ほかの空き家も見に行ったというが、結局は敬愛する陸の近 くを選んだようだ。子規庵保存会(東京)によると、子規が借りたのは、御家人用二軒長屋という。竹垣や 板垣で囲まれ、子規の病室となった6畳間は庭に面し、庭からは上野の山を望むことがで きた。藏角名誉教授は「子規が文学的な詩情を高める上で、優れた環境だったのではない か」と指摘する。確かに、子規は新居を気に入ったようだ。すぐに故郷松山から母と妹を呼び寄せ、その 後8年間、35歳で亡くなるまで、旺盛な創作活動に励んだ。加賀藩への親近を感じさせる作品も多い。例えば、春の句なら「加賀様の梅咲きにけり 塀の内」、秋には「萩(はぎ)さくや百万石の大城下」、冬は「加賀人が料りて見せつ霜 の蟹(かに)」など。さらに子規の弟子である高浜虚子は、子規が亡くなった1902( 同35)年9月19日未明を「加賀邸の黒塀に十七夜の月が明るい」と回想している。子規庵は1945(昭和20)年に空襲で焼失。現在の子規庵はかつての姿を復元した 建物で、子規の遺品や遺墨を保存、公開する東京都文化史蹟(しせき)となっている。今 もファンが続々と訪れるという子規最期の地。加賀藩とのゆかりを思うと、天才俳人の世 界観がぐっと身近に感じられる。 (「終生の地は加賀藩屋敷 正岡子規 – 北國・富山新聞ホームページ – 石川」より)]
カメラ南方向が子規庵で、案内板が掲げられています。