マーカーは安房勝山藩酒井家下屋敷跡です。
関連リンク – 安房勝山藩酒井家上屋敷跡
酒井忠一
[酒井 忠一(さかい ただかず)は、文政6年(1823年)、安房国勝山藩第7代藩主・酒井忠嗣の次男として江戸で生まれる。嘉永元年(1848年)に従五位下、安芸守に叙任する。嘉永4年(1851年)の父の死去により家督を継いだ。幕末の動乱期の中、外国船に対する海防強化をはじめ、緊縮財政政策や殖産興業による藩財政再建、人事一新などの藩政改革を推進したが、あまり効果はなかった。
万延元年(1860年)11月13日に死去、享年38。跡を長男の忠美が継いだ。 (wikipedia・酒井忠一より)]
酒井忠美
[酒井 忠美(さかい ただよし)は、安房国勝山藩9代(最後の)藩主。
安政5年(1858年)10月29日、第8代藩主・酒井忠一の長男として生まれる。万延元年(1860年)に父が死去したため、3歳で家督を継いだ。藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、戊辰戦争でも抗争した上で新政府に恭順し、木更津に出兵している。慶応4年(1868年)5月、従五位下、大和守に叙任する。
明治2年(1869年)5月、同名の藩(越前勝山藩)が他にあるため、加知山藩と改名する。6月には版籍奉還により知藩事となるが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、新たに加知山県知事となる。しかし11月の廃県により免職となった。
明治12年(1879年)、嫡男の忠勇に家督を譲って隠居する。大正12年(1923年)3月13日に死去、享年66。なお、明治17年(1884年)に忠勇は子爵となるものの、明治30年(1897年)に子爵の位を返上している。 (wikipedia・酒井忠美より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図(安政三年・1856年)」[絵図下中央付近に酒井安芸守(酒井忠一 )下屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊島郡駒込村絵図(写し)」(コマ番号2/3・絵図中央左に酒井安芸守抱屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 3号」(コマ番号2/6・絵図中央左、千駄木林左に酒井生次郎抱屋敷が描かれています。)
カメラ位置は千駄木小学校南東交差点で、カメラ北北東方向狸坂までが安房勝山藩酒井家下(抱)屋敷跡になると思います。(安房勝山藩酒井家下(抱)屋敷跡範囲:文京区千駄木3丁目16~19)