小倉藩小笠原家抱屋敷跡

マーカーは小倉藩小笠原家抱屋敷跡です。

関連リンク – 小倉藩小笠原家上屋敷跡小倉藩小笠原家中屋敷跡小倉藩小笠原家下屋敷跡(小笠原伯爵邸)小倉藩小笠原家深川下屋敷亀住稲荷神社

[枇杷橋のすぐ手前で、蛍沢(現在の谷中三丁目あたり。谷中の萩寺宗林寺から川べりまでを昔、蛍沢といった )方面からの流れや現千駄木駅方面からの支流と合流していました。ここから先は、現在の下水道真島町幹線となっています。谷中はこの辺りの広域な地名で、現在の谷中二丁目はかつて真島町と呼ばれておりました。また、枇杷橋より下流は地図で見ていただいても一目瞭然な蛇行が確認できる道路で、通称へび道と呼ばれています。
へび道の右岸側は、豊前小倉藩小笠原家の抱え屋敷があったことから「小笠原田んぼ」と呼ばれていたそうです。
明治30年代に周辺の埋め立てを行い、住宅地化された模様で、それまではへび道の最後のカーブ部分に、地元の方が“ドンドン”と呼んでいた堰を設けて、田んぼに水が流れるようにしていたようです。  (「藍染川:藍染川本流 -市井の人情とその舞台である河川跡 …」より)]

小笠原忠幹
[小笠原 忠幹(おがさわら ただよし)は、播磨安志藩5代藩主・小笠原長武の次男。天保10年(1839年)12月14日、実父・長武の死去により、家督を相続し安志藩主となった。天保13年(1842年)10月15日、12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年11月1日、従五位下兵部少輔に叙任する。後に信濃守に改める。
万延元年(1860年)11月6日、本家の豊前国小倉藩主・小笠原忠嘉の死去により、末期養子として家督を相続し、小倉藩主となった。それに伴い、長男・貞孚が安志藩主になった。文久元年(1861年)12月16日、従四位下に昇進し、大膳大夫に改める。後に左京大夫に改める。文久3年、14代将軍・徳川家茂が上洛したときは、その警護を務めている。元治元年(1864年)5月5日、侍従に任官し、左京大夫に改める。
第二次長州征伐中の慶応元年(1865年)、39歳で死去した。小倉藩は次男の忠忱が継いだが、忠忱が幼少のため、忠幹の喪は秘された。死去が公にされたのは、小倉城を自焼し、藩庁を田川郡香春に移した後の慶応3年(1867年)だった。  (wikipedia・小笠原忠幹より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図(安政三年・1856年)」[絵図四つ切右下に小笠原左京大夫(小笠原忠徴)抱屋敷が大聖寺藩前田家下屋敷です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊島郡駒込村絵図(写し)」(コマ番号2/3・絵図右下とコマ番号3/3・絵図右上に小笠原左京大夫抱屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 3号」(コマ番号2/6・絵図四つ切左下、千駄木林右上に小笠原左京大夫抱屋敷が描かれています。)

カメラ位置は千駄木二丁目交差点で、カメラ北方向不忍通り・汐見小町交差点先まで、幅はへび道から日本医科大学付属病院東側道路までが小倉藩小笠原家抱屋敷跡になると思います。