マーカーは平櫛田中邸です。
平櫛田中邸
[寺町・谷中界隈は、江戸の頃より絵師や工芸職人らの住む町でしたが、明治期に東京藝術大学の前身、東京美術学校が上野の杜に開校し、画家や彫刻家が多く住み始め、近代美術文化を育む町になりました。 岡山県井原市で生まれた平櫛田中(ひらくしでんちゅう1872〜1979)は、彫刻を学ぶため明治30年に上京し、高村光雲、岡倉天心、横山大観らの縁で谷中・上野桜木に合わせて70年以上暮らしました。彫刻一筋のため生活に苦労しましたが、地域の人々の支えに感謝し、谷中茶屋町に「狛犬」一対、東桜木町会に「獅子頭」、谷中小学校に奨学金と「いまやらねばいつできる」の書を贈りました。地域の鎮守「諏方神社」の扁額の書も手がけました。岡倉天心を生涯の師と仰ぎ、東京藝術大学内の天心坐像を手がけ、日本美術院発祥の地、岡倉天心記念公園の六角堂建立の際には、天心の胸像を寄贈しました。 田中は日本の伝統彫刻と近代美術の写実性を融合し、禅や歌舞伎にも学び、「転生」、「鏡獅子」などの代表作を生みました。後進芸術家の育成にも尽力し、近代彫刻のコレクションを東京芸大に寄贈しました。昭和36年には台東区名誉区民になり、昭和39年には文化勲章を受章。その人柄と芸術への姿勢は、今も地域内外の人々に親しみと誇りを込めて語り継がれています。
上野桜木の平櫛田中アトリエは、大正8年、横山大観、下村観山、木村武山ら、 日本美術院の画家たちの支援により建てられました。 日中安定した自然光を得るため北向の天窓を備えた近代アトリエ建築の先駆けです。 大正11年には傍らに伝統的日本家屋を建て、家族とともに小平に転居する昭和45年まで暮らしました。 その後、旧アトリエ・住宅は故郷の井原市に寄贈され、現在は通常非公開ですが、 井原市の協力の元、平櫛田中先生の顕彰と建物維持、新たな芸術文化の育成・発信を願って、 地域やNPO、東京芸大等の有志により掃除・修繕と公開活動が折々おこなわれています。 (「平櫛田中邸 – たいとう歴史都市研究会」より)]
「旧 平櫛田中邸アトリエ – Google Map 画像リンク」
カメラ北北西方向小路奥が平櫛田中邸です。