マーカーは浄光寺です。
浄光寺
[真言宗豊山派の浄光寺は、法輪山法幢院と号します。もと諏方神社の別当寺で、境内からの雪見が有名となって雪見寺と呼ばれました。境内左手には元禄4年(1691)に空無上人が勧請した地蔵菩薩像、文化6年(1809)に再建した地蔵菩薩立像があります。荒川辺八十八ヶ所霊場8番札所、豊島八十八ヶ所霊場5番札所です。
『江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)の案内
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄4年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文2年(1737)、八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同5年以降徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。(荒川区教育委員会掲示より)』 (「猫のあしあと」より)]
[真言宗豊山派の寺院で、太田道灌説と豊島左衛門尉経泰説があります。江戸時代までは、諏方神社の別当寺でした。諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺めが良く雪見に適することから「雪見寺」とも呼ばれていました。この近辺には、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られています。江戸時代、将軍が鷹狩の際に立寄ってから御膳所にあてられ、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」と石の隣には、「三代将軍御腰掛石」という碑があります。また、山門の左手には、元禄4年(1691)に空無上人によって江戸の東部6カ所に開眼された江戸六地蔵の3番目として知られる大きな銅造地蔵菩薩立像、文化6年(1809)作の銅造地蔵菩薩坐像、庚申塔等の石造物があります。
画像リンク(浄光寺山門、将軍の腰かけの石、銅造地蔵菩薩立像) (「荒川区ホームページ – 浄光寺」より)]
境内に福神漬け顕彰碑がある
[福神漬の言われについてはいくつか説がある。
明治時代初頭、東京・上野の漬物店「山田屋」(現在の酒悦)の店主・第15代野田清右衛門が開発し、自分の経営する茶店で売り出したところ評判となり、日本全国に広まった。名づけ親は、これを大いに気に入った当時の流行作家「梅亭金鵞」で、7種類の野菜を使用し店が上野不忍池の弁才天近くにあった事から「福神漬」と命名されたとされ、表彰碑が存在する。また、この名称が広がる事を願った清右衛門は、商標登録をしなかった。 (wikipedia・福神漬より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [33]貮拾壹元」(コマ番号6/7・地図中心から左上方向に浄光寺が描かれています。)
「江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「日暮里惣図其之三」(14-48)
日暮里惣図其之三(拡大図)
[其之三では絵右上に「浄光寺」、左ページ右上に諏訪神社、絵中央下に「妙隆寺(廃寺・修性院に合併)」が描かれ、そこの左方向が修性院になり、妙隆寺記述の上の道が富士見坂になります。]
絵本江戸土産 – 諏訪の臺其二 同所寺院庭中雪の景(拡大図)
絵本江戸土産 – 諏訪の臺其三(拡大図)
カメラ北北東方向、車の向こうが浄光寺山門です。
浄光寺本堂正面のカメラです。