マーカーは観音寺です。
観音寺
[新義真言宗の観音寺は、蓮葉山妙智院と号し、慶長年間(1596-1615)の創建で、もと本所弥勒寺末です。赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立されました。御府内八十八ヶ所霊場42番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場32番札所です。
赤穂浪士供養塔
赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。 寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。 本堂に向かって右側にある宝篋印塔は四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種字(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。(台東区教育委員会) (「猫のあしあと – 観音寺」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図」[絵図右中・天王寺、吉祥院の下に観音寺が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [33]貮拾壹元」(コマ番号4/7・地図中央付近、天王寺の右に観音寺が描かれています。)
「観音寺 – Google Map 画像リンク」、「観音寺 築地塀 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が観音寺山門です。
カメラ東北東方向が観音寺の築地塀です。
観音寺本堂前のカメラです。
築地塀
[築地塀(ついじべい)とは泥土をつき固めて作った塀。単に「築地」(ついじ)ともいう。石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られる物が多く、塀の上に簡便な小屋組を設け、瓦や板などで葺いたものも多くある。古来より貴族の邸宅や寺院、官舎などに特に見られ、今でも御所や寺院などで見られる。規模の大きい物は「 大垣 」と呼ばれ、平城京の南面の築地塀は高さ12mに達したといわれている。
京都御所の築地塀・wikipedia-photo、待乳山聖天に遺る江戸時代の築地塀・wikipedia-photo (wikipedia・築地塀より)]