マーカーは長安寺です。
長安寺
[臨済宗妙心寺派寺院の長安寺は、大道山と号します。長安寺は、老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場22番札所、谷中七福神の寿老人です。
長安寺板碑
死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に供えて供養を行う(逆修という)ために建立した、卒塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では秩父地方産の秩父で産出する緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種字(阿弥陀如来の種字<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。
長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。
●建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む
●弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む
●正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む
●応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
長安寺の開基は、寛文9年(1696)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。
平成3年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(平成8年7月) (「猫のあしあと – 長安寺」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図」[絵図右中・天王寺、吉祥院の右下の浄安寺が長安寺か?]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [33]貮拾壹元」(コマ番号4/7・地図中央付近、天王寺の右に長安寺年貢地が描かれています。)
カメラ北北西方向が長安寺山門です。
長安寺本堂前のカメラです。
板碑
[板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。
板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある。
分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型板碑、下総型板碑などに分類される。武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩という青みがかった石材で造られたものをさすが、阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑泥片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている。戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる。板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。 (wikipedia・板碑より)]