養福寺

マーカーは養福寺です。

養福寺
[真言宗豊山派の養福寺は、補陀落山観音院と号します。湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されました。荒川辺八十八ヶ所霊場7番札所、豊島八十八ヶ所霊場73番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場27番札所です。
『養福寺仁王門
養福寺は補陀落山観音院と号し、真言宗豊山派に属しています。開創の確かな年代はわかりませんが、初代住職という乗蓮は寛永3年(1626)に没したと伝えられています。この仁王門(画像リンク)は山門を入り、正面右寄りにあります。もとの本堂や観音堂などほかの建造物は戦災で失われましたが、宝永年問(1704-1711)建立と伝えるこの仁王門は焼失を免れて、江戸時代の木造建造物として現在に残ったものです。門の表側には仁王像一対があり、一つは口を開いて「阿」、一つは口を閉じて「呼」を示しています。仁王像は分身して一対になり、仏法を守護するといわれ、各地の寺々にも多くみられます。また、門の裏側には四天王持国天増長天広目天多聞天) のうちの二天(広目天・多聞天)の像があります。(荒川区の文化財より)』
『養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)」や、江戸時代の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。(荒川区教育委員会)』  (「猫のあしあと – 養福寺」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [33]貮拾壹元」(コマ番号6/7・地図中心から左上方向に養福寺が描かれています。)

江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「日暮里惣図其之二」(14-47)
日暮里惣図其之二(拡大図)

[其之二は見開きで、右ページ上から「経王寺」「七面宮」「長相寺」「宗林寺」が描かれ、左ページ上から「百観音」「養福寺」「人丸社」「南泉寺」が描かれています。「七面宮」が延命院で、「百観音」は養福寺です。また、「長相寺」は「長明寺」ではないかと思います。]

養福寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が養福寺山門で、その先に仁王門があります。

カメラ東北東方向に本堂と鐘楼が、カメラ南南東方向に仁王門があります。