江戸の大本山、触頭、江戸三箇寺

Google Earth で街並散歩(日本編)」で取り上げた、大本山、触頭、江戸三箇寺についてまとめてみました。

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    江戸の大本山、触頭、江戸三箇寺
    wikipedia・大本山寺院一覧によると、現在東京には天台宗から分離独立した聖観音宗 総本山浅草寺(東京都台東区)、浄土宗の大本山増上寺(東京都港区)、日蓮宗大本山の池上本門寺(東京都大田区)の三寺が記述されています。江戸時代の寺院の統制についてwikipediaでは下記のように記述しています。

    [本山(ほんざん)は、仏教の特定の宗派内に於いて、特別な位置づけをされている寺院を指す。上方本寺とも言う。
    位置づけによって、総本山、大本山、別格本山、本山などの区別があるほか、宗派によってそれぞれの用法が異なり、使用されない事もある。
    いつ頃に成立したのかは不明であるが、江戸時代に入り、かつて浄土真宗に手を焼いた江戸幕府は、宗教統制のために本山、末寺の制度を本末制度として強化し、各宗派の本山を統制することで、仏教界全体を統制した。  (wikipedia・本山より)
    本末制度(ほんまつせいど)は、幕府が仏教教団を統制するために設けた制度である。
    各宗派の寺院を重層的な本山・末寺の関係に置くことで、その宗派に対する統制をはかった制度である。そのため、無本寺寺院をゼロにして、寺院相互の本末関係を固定化してしまう必要があった。
    1631年、新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に対して「末寺帳」の提出を義務づけた。これによって、各地方の古刹が幕府の命によって、形式的に特定の宗派に編入されることとなった。
    幕府は、江戸に設置された各宗派の「触頭(ふれがしら)」を通じて、自らの意向を宗派の末寺に対して周知徹底させることが可能になった。  (wikipedia・本末制度より)
    触頭(ふれがしら)とは、江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。
    室町幕府僧録が設置され、諸国においても大名が類似の組織をおいて支配下の寺院の統制を行ったのが由来である。寛永13年(1635年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った。  (wikipedia・触頭より)
    関三刹(かんさんさつ)は、江戸時代に関東における曹洞宗の宗政を司った3箇所(下野国大中寺下総国總寧寺武蔵国龍穏寺)の寺院。
    江戸幕府の宗教政策の一環として主に地方の農村や武士階級に影響力を持つ曹洞宗に対し、1612年(慶長17年)、上記の3箇寺に関東僧録司として宗派統制の権限を与え、住職も幕府の任命制にして、統制を図った。また、永平寺の住職を上記の寺院の住職経験者から選出させる事とした。
    また、関三刹の末寺に当たる江戸三箇寺(總泉寺・青松寺・泉岳寺)と合わせて、「関府六箇寺」と呼ばれた。  (wikipedia・関三刹より)]

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