江戸の役所

このページでは、ストリートビューで確認できた江戸幕府の行政・経済・教育関係施設について紹介しています。

評定所跡 – 評定所は江戸幕政の重要事項や大名旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中一名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。
公事方勘定奉行役宅跡 – 勘定奉行は、江戸幕府の職名の一つで、勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司どった。享保6年(1721年)に財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれ、公事方は役宅で,勝手方は御殿,下勘定所で執務し、勝手方と公事方は1年交代で勤務した。勘定奉行役宅は神田橋御門外と虎ノ御門外、小石川御門内、小石川御門外にありました。
下勘定所跡 – 勘定奉行は勘定奉行を長官として、勘定吟味役・勘定組頭・勘定・支配勘定などで構成されていた。勝手方役所は、城内の「御殿勘定所」と大手門内の「下勘定所」のふたつがあり、勘定奉行と勘定吟味役は「御殿勘定所」で、その外は「下勘定所」で勤務した。
下三奉行所跡(作事、普請、小普請) – 下三奉行とは、江戸幕府施設の造営修繕の為に置かれた役職、作事奉行・普請奉行・小普請奉行の三奉行のことをいう。
浅草御蔵 – 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する天領から年貢米や買上米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵の米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
御竹蔵 – 御竹蔵は当初、建築用の資材が保管されていましたが、今の猿江公園の御材木蔵に移されるようになると、蔵前同様米蔵となりました。明治維新後は陸軍の施設として使われました。 
郡代屋敷跡 – 江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府天領の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
伝奏屋敷跡 – 伝奏屋敷は江戸時代、朝廷の勅使、院使などが江戸下向した際の宿舎で、「松の廊下の刃傷事件」で切腹した浅野内匠頭長矩が伝泰御馳走役を命じら、この時の指南役・高家が吉良上野介であった。
湯島聖堂昌平坂学問所跡 – 聖堂は、もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地(現在の上野恩賜公園)で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。
新暦調御用所(天文屋敷) – 明和2年(1765)当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐々木文次郎(吉田秀長)が司り、この地に幕府初めての新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年(1769)に宝暦暦の修正は終了したが、その後も存続し天明2年(1782)近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じたため、浅草鳥越に移転した。
天文台跡 – 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782)、牛込藁店(わらだな・現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。この天文台は、天文方高橋至時(よしとき)らが寛政の改歴に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。
地図御用所跡 – この地は伊能忠敬の居住地で、日本全国の沿岸測量図を作成するための地図御用所として利用されていました。忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去しますが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(821)門弟や天文方の下役らの手により「大日本沿海與地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成しました。
蕃書調所跡開成所 – 江戸幕府によって設立された洋学研究機関で、嘉永6年(1853)のペリー来航以後、洋式軍事技術導入や外交上の要請から、老中阿部正弘のもとで開設が計画され、安政3年(1856)九段下の竹本主水正屋敷にて業務を開始、その後小川町、一橋門外へ移り、名称も「洋書調所」、「開成所」、明治維新後は「大学南校」となり、東京大学へと発展しました。
講武所跡 – 講武所・講式場は、幕末に江戸幕府が設置した武芸訓練機関である。諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、剣術をはじめ、洋式調練・砲術などを教授した。はじめ江戸の築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、のちに神田小川町に移転する。
軍艦操練所跡 – ペリー来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)4月、旗本・御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。
赤羽接遇所跡 – 赤羽接遇所は、安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。
金座 – 金座とは、江戸幕府において金貨鋳造あるいは鑑定・検印を行った場所あるいは組織。文禄4年(1595年)、徳川家康が京都の金匠後藤庄三郎光次(京都の室町幕府以来の御用金匠である後藤家5代目・後藤四郎兵衛徳乗の弟子)に命じ江戸で小判を鋳造させた時に始まる。江戸幕府成立後は留守居、ついで勘定奉行の支配下に置かれて、江戸本石町に役宅が設置された。
銀座役所、常是役所 – 慶長17年(1612年)に駿府銀座より移転し、通町京橋より南へ四町までを拝領して、既に江戸金座が両替町と呼ばれていたことから、この地を新両替町と称し金座は本両替町と称するようになった。江戸銀座へは京都の銀座より座人が一年毎に勤番交代を行った。常是屋敷および銀座役所は現在の東京都中央区銀座二丁目にあたる。役所は寛政12年(1800年)に蛎殻町に移転した。
蛎殻銀座跡 – 寛政12年6月(1800年)、江戸銀座において上納銀の滞納など不正行為が発覚したことを機に、銀改役の大黒長左衛門八代目常房は家職放免の上、永蟄居を命じられ、その後京都銀座から大黒作右衛門十代目常明が江戸へ招致され、京都および江戸両座の銀改役を兼任することとなった。この銀座粛正の後、50人を越えていた座人は15人に縮小され、同年11月に蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転される事が申し渡され、南鐐二朱銀鋳造が再開され、移転は翌享和元年7月(1801年)に完了した。
亀戸銭座跡小梅銭座跡 – 銭座とは、江戸時代に寛永通寳を始めとする銭貨を鋳造した組織あるいは機関である。江戸時代前期は、寛永通寳などの銭貨鋳造は民間の商人らによる請負事業であり、江戸幕府の許可制によるものが中心であった。銭貨の需要が生じたとき幕府は随時、鋳銭希望者を公募し、銭貨を大量生産する能力を持つ者に期限を区切って鋳銭を命じ、鋳銭高が目標に達すると銭座は解散した。
猿屋町御貸付金会所跡 – 猿屋町御貸付金会所(さるやちょうおかしつけきんかいしょ)は、寛政の改革の棄捐令の際に札差救済のために浅草猿屋町(現在の台東区浅草橋3丁目付近)に設置された機関。後に札差に対する監督機関としての機能も有した。
島方会所跡 – 島方会所は、伊豆七島の経済的困窮を救う目的で設置された、伊豆諸島の物産売捌所です。徳川幕府は島会所を設置して、八丈島物産の売却の利便を計る一方、租税代りに、何反かの織物を物納させていた。

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