江戸三大改革

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    「享保の改革」(1716年 – 1745年)は、紀州徳川家の出身で8代将軍となった徳川吉宗が実践した改革で、それまでの幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を主導することとなった。人事面では将軍徳川家宣、徳川家継時代に正徳の治を主導した新井白石、間部詮房を解任し、紀州藩人材を多く幕臣に登用。江戸の都市政策は南町奉行の大岡忠相が主導し、町奉行所や町役人の機構改革を行い、防火対策として町火消し組合の組織化を行いました。米価や物価の安定政策、貨幣政策も行い、下層民対策では、目安箱の投書から貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置しました。また、老中松平乗邑が中心になり判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集を作成しました。

    「寛政の改革」(1787年 – 1793年)は、松平定信が老中在任期間中に主導して行われた幕政改革です。
    天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発したことや賄賂疑惑などのために、前任者の田沼意次は失脚しまが、このとき、定信は幕府の中枢に金品を送りつけ、田沼意次の失脚を図り、田沼の重商主義政策が、大店による独占市場を生み出し、農業及び工業の生産基盤を否定かつ破壊する政策である事を訴えたとされています。松平定信は田安徳川家の初代当主・徳川宗武の7男として生まれ、8代将軍徳川吉宗の孫にあたりますが、安永3年(1774年)に陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となります。白河藩主として飢饉対策に成功した経験を買われて幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となりました。定信は吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指しました。また、一連の改革は田沼が推進した重商主義政策を否定、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われました。
    旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じた、棄捐令を出すとともに、棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済して、今後の札差事業や旗本・御家人への貸付に支障がないように取り計らうため猿屋町会所を設けました。また長谷川宣以の立案により治安対策も兼ね無宿人、浮浪人を石川島に設置した人足寄場に収容し職業訓練を行っています。

    「天保の改革」(1830年 – 1843年)は、老中水野忠邦が中心となり天保年間に行われた、幕政や諸藩の改革の総称です。
    天保12年(1841年)に大御所徳川家斉が死去すると、水野忠邦は林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派や大奥に対する粛清人事を行い、重農主義を基本とした天保の改革が開始されます。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保の改革・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じ、改革は町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止されました。遠山・矢部両町奉行は厳格な統制に対して見直しを進言しますが、水野は奢侈禁止を徹底し、天保12年(1841年)12月に矢部を失脚させると後任の町奉行に目付鳥居耀蔵を任命します。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこないますが、これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなりました。上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年(1843年)閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止されました。

    西大平藩大岡家上屋敷跡 – 大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。
    西大平藩大岡家中屋敷跡 – 越前守が晩年に三河西大平一万石の大名に任命された時、信仰していた三河の「豊川稲荷」を本山から分霊して、赤坂の自邸の庭に祀ったのが、赤坂の豊川稲荷の起源となっています。豊川稲荷の現在の地は赤坂門外定火消屋敷跡地です。
    青木昆陽屋敷跡 – 青木昆陽は与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により大岡忠相に取り立てられ、徳川吉宗の命により、飢饉の際の救荒作物として甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を小石川薬園(小石川植物園で試作しています。
    小石川御薬園跡(小石川植物園) – 貞享元年(1684年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園で、その後、8代>徳川吉宗の時代に敷地全部が薬草園として使われるようになります。享保7年(1722年)目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、吉宗は大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所です。
    浴恩園跡 – 浴恩園は、寛政>4年(1792年)松平定信が17,000坪の地を得て隠居した地。
    猿屋町御貸付金会所跡 – 寛政の改革の棄捐令の際に札差救済のために浅草猿屋町(現在の台東区浅草橋3丁目付近)に設置された機関。後に札差に対する監督機関としての機能も有した。
    長谷川平蔵宣以屋敷跡 – 長谷川平蔵19歳の明和元年(1764年)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの1,238坪の邸に移りました。平蔵は寛政7年(1795年)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替となり、替わって入居したのは遠山左衛門尉景元です。
    石川島 – 幕臣石川氏が代々、居住したところから石川島と呼ばれ、寛政>4年(1792年)長谷川平蔵宣以の建議により人足置場がを設置されました。
    水野忠邦上屋敷跡 – 水野忠邦は、老中を勤めた間の弘化元年(1844)2月22日 から翌2年6月6日までの間、大名小路に上屋敷を拝領し、以後は麻布市兵衛町内に移った。
    阿部正弘上屋敷跡 – 天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし阿部は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、徳川家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保の改革時代に不正などを行っていた南町奉行鳥居耀蔵や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し(後任の南町奉行には元北町奉行遠山景元が就任)、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。
    間部詮勝上屋敷跡 – 天保11年(1840年)、徳川家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行っていた水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年(1843年)に老中を辞任した。その後、安政5年(1858年)に大老井伊直弼の下で再び老中に復帰しました。
    遠山景元上屋敷跡 – 天保11年(1840年)には北町奉行に就く。天保の改革の実施に当たっては、12月に町人達を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令していて、風俗取締りの町触れを出したり、寄席の削減を一応実行しているなど方針の一部に賛成していた。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦や目付鳥居耀蔵と対立する。
    矢部定謙屋敷跡 – 天保12年(1841年)4月28日に矢部は江戸南町奉行となり、三方領知替え問題について老中の命により検証を行った。結果として領知替えの必要性を認めず、再吟味を具申した。北町奉行の遠山景元と共に老中水野忠邦や目付鳥居耀蔵と対立する。天保12年(1841年)12月、矢部は江戸町奉行を解任された。目付鳥居耀蔵の策謀により罷免されたと見られている。取調中に無実を友人に訴えたことが問題となり、同13年(1842年)、伊勢桑名藩預かりとなった。お預から三ヶ月後、矢部は病死した。その後、改革の失敗と不正発覚により水野、鳥居は失脚、養子の鶴松が幕府への出仕を認められ、矢部家は再興された。
    鳥居耀蔵屋敷跡 – 老中水野忠邦天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直、後藤光亨(三右衛門)と共に水野の三羽烏と呼ばれる。改革末期に水野が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に耀蔵は反対派に寝返り、従来の地位を保った。
    渋川敬直屋敷跡 – 天保13年(1842年)10月に天文方在職のまま、書物奉行となる。老中水野忠邦はその才能を愛し、天保の改革の際には度々国政に関する意見を求められて上書を行ったほか、鳥居耀蔵と共に蛮社の獄に関与したとも言われている。このため、鳥居耀蔵・後藤光亨と共に「水野の三羽烏」とも呼ばれた。
    後藤三右衛門光亨 – 光亨は、信濃国飯田の商人である林弥七の子奥輔で、文化13年(1816年)後藤三右衛門方至方至の婿養子となり三右衛門家を継ぎ、金座御金改役となった。その際、光亨に改名している。天保の改革では天保二朱金や天保小判の再改鋳により幕府には多大な改鋳利益がもたらされた。しかし、弘化2年(1845年)、老中阿部正弘により、三右衛門から忠邦への16万両の贈収賄が暴かれ、10月3日、斬首。三右衛門家は断絶となった。
    柳亭種彦住居跡 – 本名高屋彦四郎知久、食禄200俵の旗本、江戸時代後期の戯作者、長編合巻『偐紫田舎源氏』などで知られる。天保13年(842年)天保の改革により譴責され、間もなく没した。
    仁杉五郎左衛門 – 天保時代には年番方与力に就任し、天保7年ごろに起きた天保飢饉に苦しむ江戸市民のために各地から米を買い集め、市内に開設したお救い小屋で粥を提供し、飢民を救済することに奔走した。5年後の天保12年(1841年)、このお救い米買付に不正があったと小普請支配(前勘定奉行)の矢部定謙が老中水野忠邦に告発した。その後矢部定謙が南町奉行となる。五郎左衛門は投獄の3ヶ月後、天保13年正月10日に獄死している。矢部定謙が南町奉行に就任後のこの事件の処理が適当でなかったと目付鳥居忠耀が老中水野に告発した。矢部は就任8ヶ月の12月21日に罷免された。そしてその7日後の28日に鳥居が奉行の座についた。この、お救い米買付不正事件は幕閣の権力争いの具にされた感がある。
    江川太郎左衛門(英龍)終焉の地(屋敷跡) – 天保8年(1837年)、モリソン号事件が発生、この事件をきっかけに川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で英龍は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物を知る事になる。幕府内の蘭学を嫌う目付鳥居耀蔵は過去に英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中水野忠邦に叱責された事もあり、天保10年(1839年)冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった(蛮社の獄)。しかし英龍は彼を高く評価する忠邦に庇われ、罪に落とされなかった。水野忠邦、鳥居耀蔵が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、正弘の命で台場を作成した。
    渡辺崋山誕生地 – 渡辺崋山は田原藩の家老で蘭学者で、田原藩上屋敷で生まれました。蛮社の獄で崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。その後、幕府との問題で藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。
    高野長英隠れ家跡江戸幕府異国船打払令を批判し開国を説くが、蛮社の獄により弾圧を受け、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監さ、そこで、牢名主として祭り上げられるようになった。弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。その後宇和島藩主伊達宗城らに庇護されるも、江戸に戻り青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。
    川路聖謨終焉の地 – 老中水野忠邦時代の小普請奉行・普請奉行として天保の改革に参与した(この頃、名を萬福から聖謨に改む)。水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている。その後、大坂東町奉行をへて、嘉永5年(1852年)・公事方勘定奉行に就任。翌嘉永6年(1853年)、阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、マシュー・ペリー艦隊来航に際し開国を唱える。慶応4年(1868年)、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。
    葺屋町堺町、猿若町 – 天保12年 (1841年) 10月、堺町(現在の日本橋人形町3丁目)の中村座が失火により全焼、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。この時期天保の改革が推進されていて風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えられていた、特に歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。町奉行所はこの火災を機会として堺町葺屋町両狂言座、操芝居そのほか芝居関係に携っていた町屋の分も残らず、浅草聖天に近い小出伊勢守下屋敷跡(猿若町)へ移転を命じた。

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