江戸三座

「Google Earth で街並散歩(江戸編)」で取り上げた、江戸の歌舞伎関連についてまとめてみました。

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    江戸三座
    [江戸三座(えど さんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座(かんきょ さんざ)、公許三座(こうきょ さんざ)、また単に三座(さんざ)ともいう。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。
    三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。
    府内の芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ(1670年代) までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められるようになった。これを江戸四座(えど よんざ)という。
    正徳4年(1714年) には山村座が取り潰されて中村座・市村座・森田座の江戸三座となる。その三座も座元(座の所有者)が後継者を欠いたり経営が困難になったりすると、興行権が譲渡されたり別の座元が代わって興行を行うことがしばしばあった。享保末年以降(1735〜) になると、三座にはそれぞれ事実上従属する控櫓がつき、本櫓が経営難で破綻し休座に追い込まれると年限を切ってその興行権を代行した。
    明治22年(1889年)、福地源一郎(桜痴)らが演劇改良運動の一環として推進していた新たな歌舞伎の殿堂・歌舞伎座の建設が始まる。やがて市村座と新富座(守田座)は歌舞伎座とともに関西系の松竹合名会社に買収され、その独自性を失っていく。
    大正12年(1923年)、関東大震災で新富座(守田座)と市村座はともに焼失。新富座はその後再建されずに廃座となった。市村座は仮小屋を再建したが、それも昭和7年(1932年)には失火で焼失、以後再建されずに廃座となる。中村座はすでに明治26年(1893年)に失火で焼失、廃座になって久しかった。ここに300年の伝統を誇る江戸三座はその歴史に幕を下ろした。  (wikipedia・江戸三座より)]

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