江戸の祭礼

「Google Earth で街並散歩(江戸編)」で、上記に紹介されている祭礼が記述さてているページと「江戸名所図会」、「東都名所」で祭礼を紹介している箇所付近をまとめてみました。

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    天下祭
    [天下祭(てんかまつり)または御用祭(ごようまつり)とは、江戸時代以来続いている江戸東京)の代表的な祭礼である。江戸の総鎮守と称された神田明神の神田祭徳川家産土神とされた山王権現(日枝神社)の大祭である山王祭を主に指す。
    江戸時代の正徳4年(1714年)9月に根津権現(根津神社)の祭礼である根津祭が天下祭に一度加えられたことがあったが、天下祭の名称は永く神田祭と山王祭が占有する所となった。この両社は江戸城を守護する神社として徳川将軍家からも崇敬され、祭の際には両祭の山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていた。
    この他に江戸一帯の名だたる大祭として、赤坂の氷川明神祭、牛込の赤城明神祭、小石川の白山明神祭、本郷の湯島天満宮祭、下谷の下谷稲荷祭、浅草の鳥越明神及び三社権現祭、向島の牛御前祭、深川の富岡八幡宮祭(深川祭)、亀戸の亀戸天満宮祭、王子の王子権現祭などがあり、これらは江戸の年中行事のひとつとされたが、中でも天下祭がとりわけ隆盛を極めていたとされる。
    天下祭(神田祭・山王祭)と富岡八幡宮の深川祭を指して江戸三大祭と称される。  (「wikipedia・天下祭より)]

    江戸時代に現在の東京都中央区千代田区を中心とした地域で行なわれていた五つの神社の祭礼について
    [江戸時代、江戸では開府以来日吉山王権現(日枝神社)と神田明神は府内にある神社の中でも特に重んじられ、現在の中央区や千代田区を中心とする地域に数多くの氏子町を持ち、各町の氏子たちはその祭礼である山王祭・神田祭に参加していた。それらの町の中には双方の神社の氏子を兼ねているところがあり、また神田明神には境内に摂社として牛頭天王の三社が祀られていたが、その氏子には山王・神田の氏子にして更にこの天王社いずれかの氏子でもあるという町があった。山王祭と神田祭は隔年で交互に行なわれたが、天王三社の祭礼である天王祭は毎年行なわれた。すなわち町によっては、一年の内で二度も同じ町内で祭があったということである(なお霊岸島の地域は富岡八幡宮の祭礼にも氏子として参加していた)。このうち天王三社の祭礼については大伝馬町、南伝馬町、小舟町がそれぞれ宮元になっており、祭の名にその町名を冠していた。これら合せて五つの社の祭礼の時期は以下の通りである。
    ●大伝馬町天王祭(天王二之宮) 6月5日 – 8日
    ●南伝馬町天王祭(天王一之宮) 6月7日 – 14日
    ●小舟町天王祭(天王三之宮) 6月10日 – 13日
    ●山王祭(山王権現) 6月15日 – 16日
    ●神田祭(神田明神) 9月15日(以上いずれも旧暦
    山王祭と神田祭は天下祭とも呼ばれ、各町から数多くの山車練り物が出て列をなし、神輿に付き添うというものであったが、天王社の三つの祭は山車練り物は一切出ず、それぞれの神輿が氏子町に作られたお旅所に数日留まって各町を渡御した。
    神田明神の牛頭天王三社は、現在では江戸神社(天王一之宮)、大伝馬町八雲神社(天王二之宮)、小舟町八雲神社(天王三之宮)とそれぞれ呼ばれる。また現在の江戸神社の神輿は千貫神輿とも称される大きなものであるが、本来の祭日である6月ではなく現在5月に行なわれる神田祭に出されて担がれている。小舟町八雲神社の祭礼は現日本橋小舟町を中心に四年に一度行なわれるが、大伝馬町八雲神社の祭礼は現在行われていない。  (wikipedia・江戸祭礼氏子町一覧より)]

    神田祭巡行路
    [9月15日の暁丑の刻(午前2時頃)、江戸の町を埋め尽くす2年に一度の神田祭ははじまる。勢揃いした町々の山車や附祭は湯島聖堂前・桜の馬場を出発。同じころ神輿の行列や諸大名より出された警固役や神馬も大榊を先頭に神社を出て昌平坂を降り、ここで合流し神田祭の行列は完成する。行列は筋違橋御門から江戸城・外廓内へ入り神田の町々を渡り、さらに田安御門より内廓に入った。朝鮮馬場で一時休憩した後、上覧所前を通過する。上覧所では将軍や御台所(将軍の夫人)、大奥女中たちが祭を楽しんだ。そして行列は竹橋御門を経て大手橋と神田明神旧鎮座地にいたり、ここで獅子の狂いと神事が執り行われた。その後、常盤橋御門から江戸城外を出て町々の山車や附祭はここで解散、神輿の行列は日本橋の町々を通り、大伝馬町・小舟町・南伝馬町の御仮屋へ行き神事を執り行い神社へと向かう。神社への帰途、路次には町々が競って提灯を掲げ神輿の帰りを出迎えた。そして、戌ノ刻(午後8時ころ)頃、神社へ帰社し、天下祭・神田祭は終わりを遂げた。  (「江戸時代・神田祭の巡行路」より)]

    山王祭巡行路
    [車楽、練物の行列は、未明に山下御門を入り、日比谷御門の御堀端に沿って進み、桜田御門のところで左折し、筑前福岡藩黒田家上屋敷のところを右折、坂を上って山王権現の前を通って再び右折し、お堀端に出て半蔵門から城内に練りこむのである。その後、竹橋御門から御城を出て、大手町から常盤橋に到って車楽は退散する。神輿はその後も残って、本町一丁目、二丁目、十軒店、本石町、鉄砲町、大伝馬町一丁目、二丁目、田所町、小舟町、小網町、萱場町を通って山王御旅所で休憩し、さらに、海賊橋を渡り、青物町から日本橋通一丁目へ出て、大通りを尾張町まで来たところで右折し、山下御門を入り、元の筋道を通って御本社へ還輿するというのが行列の道筋である。  (「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込」より)]

    天王祭礼
    [南伝馬町天王祭が天王一之宮、大伝馬町天王祭が天王二之宮、小舟町天王祭が天王三之宮と称しているが、これらの序列は天王祭の参加順によるものであろう。また、小船町の天王は当初小伝馬町持ちであったらしいが、正徳年間に疫病を払うために小船町に御旅所を置いたのが、以後そのままになったという。
    天王一之宮の神輿は大手門橋の中程に据えられ、獅子二頭は冠木門の所まで舞いこんで頭を合わせるのが通例であったという。町奉行所への渡御については天王一之宮ついて幕末まで行われ、そのときだけは表門を開いて神輿を迎え入れ、また奉行や与力・同心の家族・親類や希望者など男女問わず奉行所の内部を見学することを許していた。これに、対して天王二之宮は常盤橋門前の橋までで、天王三之宮は常盤橋門前の橋での奉幣も行われていないようである。 (参考「江戸天王祭覚書」より)

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