「奥の細道矢立始めの地」の碑

マーカーは「奥の細道矢立始めの地」の碑です。

「奥の細道矢立始めの地」の碑
[松尾芭蕉は、天保元年(1644年)、伊賀上野の城下(現在の三重県伊賀市)で生まれ、後に(1672年)、江戸に移り住み、様々な俳諧活動を展開しました。《詳しくは、当ホームページの「江東区芭蕉記念館」のページをご覧ください。》
芭蕉は、元禄2年(1689年)、46歳、江戸深川から「奥の細道」に旅立ちました。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。・・・(中略)・・・ 彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼き魚の目は涙
(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。」
千住宿は、芭蕉の「奥の細道」への旅立ちの地です。江戸時代から、日光街道の江戸から一つ目の宿場として栄え、江戸四宿の一つにも数えられています。現在の北千住には、千住大橋の北詰にある大橋公園に、「奥の細道矢立初の碑」と奥の細道の路程図が設けられ、芭蕉の足取りが説明されています。公園に続く河岸に、橋詰テラスが設けられ、与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」(芭蕉が弟子の曾良を伴っての旅立ちの図)、葛飾北斎や初代歌川広重が描いた千住の宿の図などが護岸壁に大きく描かれています。また、日光街道を挟んで東側を北へ100mほど歩くと、「千住宿 奥の細道プチテラス」が設けられています。ちょっとした休憩ができる場所で、矢立を手にとり句を詠む「奥の細道 矢立初芭蕉像」が建てられています。(平成16年、芭蕉生誕360年を記念して設置されたとのことです。)
そして、芭蕉は、奥羽北陸岐阜大垣へと約600里(約2,400km)、およそ半年の旅を続け、道中で詠んだ俳句をもとに「奥の細道」をつづりました。最終地の大垣に到着した後、芭蕉は、三重桑名伊勢を訪れ、そして、故郷の伊賀上野へと帰郷しています。  (三重県|三重県東京事務所:北千住「奥の細道矢立初の碑」(松尾芭蕉)より)]

奥の細道 矢立初めの地 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向が「奥の細道矢立始めの地」の碑です。

カメラ位置は橋詰テラスで、カメラ北方向に与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」(芭蕉が弟子の曾良を伴っての旅立ちの図)の模写が描かれています。

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